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横浜日仏学院シネクラブ120519

aufonddesbois5/19(土)18時より横浜日仏学院シネクラブを開催します。
今回はブノワ・ジャコ監督の『森の奥』上映。
オリジナル日本語字幕付きです!

作品については、こちらの記事で詳しく書きましたけど、本当に素晴らしい。
ジャコの最高傑作の一本であり、到達点を示していると思います。
http://blog.ecri.biz/?p=1691

映画誕生以前、ヨーロッパの深い森の中で繰り広げられた、血と狂気と暴力と残虐に彩られた少年少女の純愛物語でありゴシックホラー!
是非、この機会にご覧下さい!

横浜日仏学院シネクラブ
『森の奥』 監督:ブノワ・ジャコ
2012年05月19日 (土) 18時00分
会員:600円
一般:1,200円
芸大生無料
お問い合わせ: 横浜日仏学院(045-201-1514)

(フランス/2010年/102分/デジタル上映/カラー/日本語字幕付き)
出演:イジルド・ルベスコ、ナウエル・ベレス・ビスカジャルト

1865年、南フランス。ある裕福な医者の家を、口の聞けない貧しい若者が、宿を求めて訪れた。その家には医者の娘のジョゼフィーヌがいた。ジョゼフィーヌは、奇跡を起こすその粗野な若者に最初はおびえていたが、やがて魅了されていく…。
激しく情熱に突き動かされる無垢な女性を演じるイジルド・ルベスコと、強烈な存在感を持つ俳優ナウエル・ベレス・ビスカジャルトによる競演。ブノワ・ジャコが、無意識の闇と、狂気の愛をシュールレアリスティックに描く。

上映後、映画評論家・大寺眞輔による講演あり。

協力:アンスティチュ・フランセ

アクセス
東京藝術大学 (横浜・馬車道校舎)大視聴覚室

詳細は、こちらのサイトもチェックして下さい。
http://www.institut.jp/ja/evenements/11712

Geidai

『ジョージ・ワシントン』

gw51『ジョージ・ワシントン』
デヴィッド・ゴードン・グリーン

傑作!これは本当に素晴らしい!『すべてのリアルな女の子たち』のD・G・グリーン処女長編ですが、これまた特筆されるべき出来映え。描写は繊細で瑞々しく、スタイルは斬新で、確固とした具体性を持つ風景と世界が既に確立している。

年に一度、独立記念日のパレード以外に華やかなイベントのないノースカロライナ州の田舎町で、黒人を中心とした労働者階級の子供たちと、それを取り巻く挫折した大人たちの物語。

郊外の寂れた街を舞台に荒れた風景と生活と人の心を描いている訳ですが、先の見えない人生とか、子供たちが晒される野蛮で道徳を欠いた環境とか、そうした紋切り型の奥底に沈んでいる実にセンシティブな感情の揺れ動きを丹念にとららえることにこそ、この作品の主眼は置かれています。

ストーリーとしては、子供たちにとって重要ないくつかの事件、しかし社会にとっては決して重要でもないそれら(荒れた街には付きものの、お馴染みの小さな悲劇)を中心に、そこから彼らの心の中に波紋のように広がっていく動揺を導き手としつつ、吹き溜まりのような街とそこでおそらく一生を終えるであろう大人たちの間で、それでも夢を抱こうとする心、現実を見据えようとする心、逃げ出そうとする心、諦めて全てを受け入れようとする心、そうした様々な心の揺れ動きを実に繊細かつリリカルにとららえている。これは泣く!

とりわけ、中心となる数人の子供たちによる、お互いに対するそれぞれのコメントがナレーションとして導入され、その小さなコミュニティ内部の揺れ動きや距離感、相互関係の変容、アクションとリアクション、そして夢や憧れや失望や幻滅を語っていくスタイルを取っていて、これが実に効果的。
ハーモニー・コリンなんかとも共通する部分がかなりありますが、グリーンの場合、あそこまでスタイルや美学に走らず、もう少しキャラクターに寄り添う作りをしてますね。

登場する少年の一人が舞台で朗読する台詞の中に「この曲がりくねった道で、僕の魂が迷ってしまわないよう見ていて、そしてそっと抱き上げて、地面に落ちてしまわないように」ってのがあって、これが主題をほぼ要約してる。とっても良い台詞。で、その少年の運命がまた…。これ泣くよなあ。

アマチュアを中心としたキャストのアンサンブルも見事だし、2000年の作品ですが、現代映画のクラシックとしての風格さえ感じられる。
と言うか、間違いなくここには一つの潮流があるんですよね。アメリカやヨーロッパ、日本と言った地域を問わず、作家の興味を引きつけ、その創作の源ともなっている現代映画の潮流というものが。これについては、きちんと語られ、論じられ、発見され、その魅力を共有されなければいけないと思う。

『ジョージ・ワシントン』予告編(ページ上部の枠内をクリックすると再生されます)
http://www.criterion.com/films/691-george-washington

映画日記20110510

ここしばらくの間でtwitterに投稿したのにこちらには転載していなかった映画日記&試写日記です。
抜けや重複があるかも知れません。

『ブラウニング・バージョン』
アンソニー・アスキス

『ティンカー・テイラー』見て、久しぶりに渋いイギリス映画にドップリと浸りたくなったので、クライテリオン・セールで買っていたこれを。パブリックスクールでラテン語を教えていた老教師が健康を害し教壇を去るまでの数日が描かれています。

マイケル・レッドグレイヴ演じる主人公は学者として優秀だが、厳格でシニカルな性格のため生徒たちから嫌われ、学長には陰でヒムラーとさえ呼ばれている。妻は同僚の教師と浮気し、生徒たちからも全く慕われない彼は、自分の人生が失敗だったと考えるが、そこで初めて一人の人間として周囲の人間に少しずつ心を開くようになる、という話。

アスキスは、おそらく現代では忘れ去られてしまった作家の一人で、この作品も緊張感溢れる出来だとは思いますが、改めて注目されたり再評価されるような作品ではないかもしれません。ただ、年老いた嫌われ者の教師の内面とその感情の流れを丹念に追っていて、これ、本当に感動的なんですよ。こういう映画って、もう作られなくなってしまいましたよね。

厳格な教師が急に優しくなったりとかはしないんですよ。最後までいかめしくて辛辣でいかにもイギリス人で。ただ、そうした自分の失敗を最後に素直に認め、次に来る人たちに道を譲る。そして、彼のことをただ嫌っていた生徒たちも、古き良き教師の最後の姿にいつまでも暖かい拍手を送り続けるって感じで、ああ、いいなあ、こういうのって。

因みに、タイトルのブラウニング・バージョンとは、「アガメムノン」を現代イギリス語に翻訳したロバート・ブラウニングの版のことで、主人公の教師もかつてそのラテン語の戯曲に熱狂していた頃自分の手でそれを口語訳していたが、未完のまま放置していたというエピソードに由来しています。

こういうタイトルのセンスも大好き。今どきのマーケットしか頭にない映画タイトルとは大違いだな。

『アワ・イディオット・ブラザー』
ジェシー・ペレッツ

タランティーノによる2011年ベストで『アーティスト』とタイの10位に入ってました。あまりに率直で素朴でお人好しで、何事も正面から受け止めることしかできない、一言で言えば馬鹿な兄弟が引き起こす騒動を描いた映画。面白かった。

馬鹿な兄貴を持った3姉妹というのが、旦那に浮気されてるのに家族のため見て見ぬふりするエコロジストとか、仕事のため他人を踏み台になりふり構わず生きてきたビッチとか、レズビアンでずっと付き合ってる彼女がいるのについ男と寝て妊娠しちゃった3女とか、要するに現代社会を今どきに生きてる人たちばかりで、それが馬鹿な兄貴に振り回されて生活をメチャクチャにされて怒るんだけど、本当はそれまでの自分の方がずっとメチャクチャな人生を歩んでいたことに気づくって感じ。

3姉妹をエミリー・モーティマー、エリザベス・バンクス、ゾーイ・デシャネルが演じてて、みんなとってもはまり役。これだけバラエティ豊かな役を演じることが出来るのって、ラッキーだと思いますね。馬鹿な兄貴役のポール・ラッドもとても良かった。

『ジャイガンティック』
マット・アセルトン

びっくり!これは拾いものでした。すっごく面白かった。ゾーイ・デシャネルで買ってたDVDですが、一般的には評価が低くて、でもダラス国際映画祭で作品賞取ったり一部でファンがいるって話だったのですが、私は大好きだった。

『(500)日のサマー』のサマー目線から恋愛とか家族とか成長とかを扱ったラブストーリーだと言えばいいでしょうか。もちろんゾーイはボケなんですが、相手役がポール・ダノでこちらもボケ。ボケVSボケの壮絶な恋愛バトルが繰り広げられます(笑)。『サマー』の100倍面白い。

すっごくヘンな女の子とすっごくヘンな男の子がすっごくヘンな恋愛をして、でも彼らは物事を駄目にしちゃいけないと悩むんだけど、本当は周りの大人たちもすっごくヘンで、何もヘンじゃないし何も駄目にならないと教えてくれるって映画。良い話じゃないですか!

ポール・ダノのお母さんをジェーン・アレクサンダー(!)が演じてて、彼女とゾーイがベランダで女同士で話す場面があるんですけど、これがものすごく感動的。ちゃんと風も吹くし外の空気が入ってくるし。ベランダという空間をキチンと扱える映画ってそれだけで素晴らしいですよ。

共同脚本を日系の方が書いてられるみたいで、そんなこともあってかこの『ジャイガンティック』、なんか不思議に日本映画っぽいというか、日本映画にいろんなアイディアと活力を与えてくれる作品だと思いました。恋愛映画とは全く無縁な人こそ、これ見て恋愛映画撮りたくなるんじゃないかと。

『ディー判事:幻炎の謎』
ツイ・ハーク

ガイ・リッチー版『シャーロック・ホームズ』同様のラインを狙った超大作なんですが、監督がツイ・ハークだから派手でも下世話でも見せ場てんこ盛りでも、安心して楽しめる作品に仕上がってます。めっちゃ面白かった!

普通に考えたら、いやんなるくらいあざといしガチャガチャしてる筈の作品なんですが、やっぱ映画のスペクタクルのなんたるかを知ってる監督さんだからでしょうね、全編ただただ血湧き肉躍る素晴らしいアクション映画に仕上がってます。

ディー判事役のアンディ・ラウをはじめ、レオン・カーファイ、カリーナ・ラウ、リー・ビンビンと豪華俳優陣が集結して、さらにアクション監督はサモ・ハンですよ。なんで日本公開されないんだろう?こんなに面白いのに。リー・ビンビンのツンデレ美女剣士とか、絶対日本でも受けると思うけどなあ。

あ~!そうなんですか、しまった!公開まで待てば良かった!まあ、アメリカ発売日にブルーレイ予約購入してたんで良いんですが。是非みなさんは劇場で! RT @Yaeko_Mana: 日本公開決定済です。『王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件』というタイトル。 すごく楽しみ~!

試写日記
『別離』
アスガー・ファルハディ

ベルリン映画祭で金熊賞はじめ主要な賞を独占したことで話題の作品。たしかに抜群の出来映え。誰が見ても傑作だと思う。イスラム特有の問題も描かれてますが、それ以上の普遍的価値に達した傑作だと思う。

主題とその扱い方の見事さばかりではなく、映画的な形式への組み込みも素晴らしいと思う。イラン映画ファンからシネフィルまで、広く見られるべき作品。

ただ、その極めて高い水準を前提に話せば、個人的にこの『別離』が決して好みの作品ではないことも一方で事実。理由は明確ですが、出先でサラッと書くような軽い問題ではないので、また改めて。

『プロジェクト・ニム』
ジェームズ・マーシュ

昨年末の東京国際映画祭で上映されたドキュメンタリー。ずっと見たかった作品だったにも関わらず、その際どうしても都合がつかず残念な思いをしていましたが、ようやくアメリカでDVDがリリースされました。素晴らしかった。

生まれたばかりのチンパンジーを普通の人間の家庭で人間として育てるという70年代に実際に行われた実験に取材したもので、作品を見た誰もが感じるように、『猿の惑星:創世記』と非常に似通った部分があります。ペアで見るのがマストだと言って良いほど。

チンパンジーを人間の中で育てる、と一言で言っても、その中には実に複雑なプロセスやドラマチックな関係があって、一概に誰が善人で誰が悪人と決めつけることが出来ず、またそれを見る私たちも極めて複雑な感情の交錯を体験することになります。

精巧に編み上げられた長編小説を読むかのような作品だと言っても良いでしょう。実に複雑で、アンビバレントで、かつ強烈な感情の波に何度もさらされる。ドキュメンタリーの持つ力について、改めて考えさせられた映画でした。

ニムの「母親」として振る舞った人間は何人もいたのですが、彼ら彼女らは様々な理由でやがてニムから離れる。その後、人間として育てられた者には耐え難いような運命がニムを待っているのですが、そんな時、かつての「母親」が彼を心配して様子を見にやってくる。

すると、ニムは自分をこんな運命に置き去りにしたという怒りは一切見せず、ただ楽しかった時代を思い出したかのように、あの頃と全く同じ調子で話しかけ、外に出たい、遊びに行きたいと話しかける。でも、「母親」たちはその日の夜にはその場を離れ二度と戻ってこない。

彼ら彼女らが去った後、ニムは、それまで以上の鬱状態となってしまう。でも、何度同じ目にあっても、それでもニムは人間を許してくれる、という、このあたりでもう涙腺が限界でした。

試写日記
『私が、生きる肌』
ペドロ・アルモドバル

もんのすごく好みの物語で、もんのすごく刺激的な雰囲気で、もんのすごくワクワクするディテールにあふれた、もんのすごく大好きな監督の最新作だったのですが…、というあたりで、後は言葉を濁そうかと(笑)。

試写日記
『孤島の王』
マリウス・ホルト

よくできた、しっかりした作りの映画だと思います。物語も好み。

alltherealgirls2『すべてのリアルな女の子たち』
デヴィッド・ゴードン・グリーン

これは本当に素晴らしい!ノースカロライナ州にある寂れた地方都市の景観の中、悪さばかりしていた男の子グループの一人が恋をして成長していく姿を丹念に捉えた作品。すっごい良い!泣く!

ゼロ年代アメリカ映画作家で、最も影響力の強い監督の一人がこのデヴィッド・ゴードン・グリーンだって話は聞いていたのですが、正直ピンと来なかったんですね。と言うのは、彼がメジャーデビューした後の作品しか見たことなく、と言うか、それら含め一本も日本公開されてないんですが(笑)

ともあれ、彼が名を上げたインディペンデント時代の作品を見たのはこれが始めてで、確かにこれは素晴らしかった。抜群の演出力だと思います。と言うか、こんな作品、そうは見られない。日本映画とかでも、男の子がヤンチャしているようなのはいっぱいありますが、

社会や周囲の景観の中で一人の人間が生きて考えて傷ついて成長していく姿ってものをちゃんとした演出力で丹念に生き生きと、しかも説得力ある形でとらえた映画って、実はそうそう巡り会えない。こういうの、見とかないと駄目だと思いますよ。真剣に。映画のためにも自分のためにも。

主人公が口にする台詞で「僕の問題は君がやったことで生まれたんじゃない。それはmeとMeの間にあるものなんだ」ってのがあって、ああ、うまいなあ。男の子だなあ。青春だよなあ。みんな、こういうこと考えてきたんだよなあ、という。

心に響く映画ってものに、みんな臆病すぎないか?って改めて思うことがあるんですけど。でも、心に響く映画って確かに存在するんだし、そういうの見たいよね。映画はそればかりじゃないけど、でも、それも映画の美徳なんだから。

デヴィッド・ゴードン・グリーンの作家的な素晴らしさって、でもやっぱりインディペンデントで一番生かされるものなんだろうなって思いました。メジャーな映画じゃ、なかなかこういう作品は作れない。こういう作品だけ撮って、それで世界的に有名になって、

お金もそこそこ稼げて生きて行くことが出来ればそれが一番なんだろうけど、アメリカでもたぶんそれは難しいんでしょうね。

実際、彼がメジャーデビューしたからこそ、その作品が有名になって他の国でも見られたりした部分は大きいでしょうし。でも、メジャーデビューしたからこそ、同時に彼の最大の美点が損なわれてしまったという事実もあり、世の中難しい。実際、最近の作品はいまいちなんですよ。

ポール・シュナイダーとゾーイ・デシャネルが中心となるカップルを演じていて、とても良かったです。2003年の作品でゾーイはまだまだ若くて痩せてますが(笑)、演技はこの時点ですっかり完成されてる。

男の子と女の子が何もない場所で向かい合って立って、好きだよ、私もよって口にする。そういうのってたぶん最悪の演出プランだと思うんですけど(笑)、グリーンって、あえてそこから始めちゃうんですよ。

ゲ、マジかよ、とかこちらが思ってると、そこからその二人の言葉とか仕草とか空気感とかで、その抽象性がドンドン生きた現実の風景の一部、人生の一部、大切な記憶の一部へと変化していく。そのダイナミズムこそが、彼の作品の秘密の一つだと思いました。

『すべてのリアルな女の子たち』、超オススメです。デヴィッド・ゴードン・グリーンは、私もちゃんと見とかないと。

試写日記
『ファウスト』
アレクサンドル・ソクーロフ

相変わらず表現主義とか無声映画のイメージを大量に採取して、内蔵取り除いて天日に晒したような作風で、それをどうとらえるかで評価が違ってくるとは思いますが、かなり奇妙なものに仕上がってきてはいて、それはやっぱり面白いと思う。

試写日記
『ミッドナイト・イン・パリ』
ウディ・アレン

文句なくアレン最高傑作の一本!メチャクチャ面白い!サイのようなオーウェン・ウィルソンにひたすら親近感を感じる。冒頭から、そうなるしかないようなって落としどころにキチンと落としつつ、それに快哉を叫ばせるこの予定調和の見事さ!

アレンも『影と霧』の混迷からずいぶん遠いところまで来たものだとしみじみ思いましたが、『ミッドナイト・イン・パリ』、ホントに良い映画です。ああ、頑張って生きて行こう、共和党右派のクソオヤジみたいなのに負けてたまるか!って力がふつふつと漲ってきます(笑)。初日に見に行こう!

ブニュエルがらみのギャグが秀逸で、試写会では大受けでしたが、これはさすがに試写会だからだよね。マリオン・コティヤール、レア・セイドゥ、カーラ・ブリュニと、フランス女優も超豪華。しかも、扱いがとても丁寧。とくに、レア・セイドゥはすっごい得な役で、あれはみんな好きになるわ。

『タブロイド』
エロール・モリス

すっごく面白かった。米ドキュメンタリー界を代表する巨匠の近作ですが、『フォッグ・オブ・ウォー』なんかと違い、資本主義社会に生きる人々の奇妙な執着と欲望をコミカルに、そしていつしか恐ろしく描いたとても秀逸なノンフィクション・コメディになってます。

題材としては、ミス・ワイオミングに選ばれた若く魅力的な女性が、モルモン教徒のぱっとしない青年を彼が赴いたミッションの地から誘拐し、ベッドに縛り付けてレイプしたと報じられた事件に関して、その当事者である女性ジョイス・マッキニーなどにインタビューして構成したもの。

ただ、この女性の話がえらく秀逸で、とにかく自分の話をすることが楽しくて仕方ないと言った雰囲気。モリスはそれを決して裁いたりジャッジしたりすることなく、あくまで軽やかなタッチで多面的に繰り広げられる事実と狂言、思い込み、妄想のページェントとして見事に作品としてまとめ上げてます。

資本主義社会とタブロイドの時代に生きるアメリカ人の夢とその裏側とその執着と妄想への傾斜を、決して深刻に構えることなく、しかし実に鮮やかにえぐり出した作品だと言って良いでしょう。何よりコメディとしても本当に軽快で面白い。見事な構成力だと思います。

『グッバイ・マイ・ファースト・ラヴ』
ミア・ハンセン・ラヴ

これはとっても良い!ミアはダサいことだけはしない監督って印象があって、でも撮ってるのが人生の映画で、人生ってのはダサかったり気まずかったりすることばかりなので、だから前2作に関しては、良いけど、これは他人の映画だなと。

それに対して今作も前半はそんな感じで始まりましたが、途中からやや踏み込んだ部分があった(仲直りしようと近づく場面とか)ので、だいぶ好きになりました。

まあでも、あの前半の感じは正直ついて行けなかったけどね(笑)

あまのっちが急速に成長して、ミアのこのレベルをいつか超えると良いのになって普通に思った。ハッ…いかん!これじゃ自主映画シンパシー映画批評家の立ち位置だ!(笑)

『僕と彼女とオーソン・ウェルズ』
リチャード・リンクレイター

マーキュリー劇団の旗揚げを背景にした青春映画だろうなと思いつつ見て、確かにそうなんだけど、ここまでウェルズを正面から描いた作品になってるとは思いませんでした。面白かった。みんな見ると良いと思います。楽しいです。

原題の「Me and Orson Welles」が正しく内容を表してると思います。俳優志望の青年が偶然ウェルズと彼のエネルギーに満ちあふれた狂奔的世界に巻き込まれて、年上の女性と恋をして、未来の希望に夢を膨らませて、華やかな世界を垣間見て、その醜い裏側も知って、でも前を向いて歩いて行こうという感じ。

正しく青春映画ですね。こういうの大好き。リンクレイターの演出も、ウェルメイドにまとまった作品を狙っていて、華やかさや突出した部分はないですが、ウェルズとその周囲の人たちの面白さ、演劇への熱狂、時代のエネルギーといったものを十分伝えるのに成功していると思います。

知識も教養もある連中が、ものすごい勢いでバカやってるって感じが良いんですよね。ウェルズはじめジョン・ハウスマンとかジョゼフ・コットンとかみんな出てきますけど、それぞれキャラクターをキチンと踏まえた上で物語に生かされてるので、物まね合戦には全くなってません。

ウェルズ役のクリスチャン・マッケイと年上の女性を演じるクレア・デインズが良かった。あと、小説家志望の女の子役で出てくるゾーイ・カザンも。彼女と主人公の若いカップルはとっても好感度高かった。以前書きましたが、ゾーイはエリア・カザンの孫で、ポール・ダノと現在つきあってます。

『ドライヴ』と『シェイム』

『ドライヴ』はすごく面白かったんだけど、個人的に「男の美学」的なものに抵抗あるんだよなあ。あの作品の場合、アメリカ70年代くらいのジャンル映画のゴツゴツ感と結びつけて自分を納得させることは出来るんだけどもね。

「男の美学」映画にも「女の美学」映画にも、どちらも正直抵抗ある。たいてい、一回ゲッとなって引くんだけど、映画的に面白かったり素晴らしかったりすると、そこから改めて引きつけられる。ただ、それを他人に勧めようとするとき、その自分の生理がどこかで言葉に影を落とす(笑)。

ニコラス・ウィンディング・レフンは『ヴァルハラ・ライジング』がモロ男の美学&美学系の映画で、正直見てるのが苦痛だったんですが、あ、これも公開するみたいですね。ともあれ、そうした自分の趣味とか作家性をアメリカ映画のジャンル感という殻に包んで成功したのが『ドライヴ』かなと。

『シェイム』を好きなのは、あの映画がそうした男の美学&80年代風ポストモダン美学映画のセルフパロディになってると思うから。だって、セックス中毒だよ?(笑)うちら、こういう趣味のものですけど、って部分の思い入れとか陶酔とかをあられもなく即物的にスクリーンに投げだそうとしている。

だから、それは当然共感なんてできない。共感を主題とした共感できない映画を撮ろうとして、でも悪意の方にまでは行かない慎ましさと言うか一歩引いた感じは今っぽくて良いと思うなあ。

でも、男の美学映画に陶酔する男性を批判したり馬鹿にするのは簡単だけど、女の美学映画に陶酔する女性に水を差すようなこと言うのも難しいよね(笑)。ま、これは女性批評家の皆さんの仕事でしょうか。

『イントゥ・ジ・アビス』
ヴェルナー・ヘルツォーク

8日後に処刑が予定されたマイケル・ペリーのインタビューを中心に、死刑問題を扱ったドキュメンタリー。ヘルツォーク自身は冒頭で自ら述べるように死刑反対の立場ですが、この作品はそうした政治的主張のプロパガンダではありません。

実際、ここで取り上げられる、ペリーが関わったテキサスでの3人の殺人事件(彼自身は直接自らが手を下したことを否定していた)はあまりに無慈悲かつ残虐なもので、それは警察の収めた記録映像と共に詳細に語られますが、正直、正視に耐えない部分さえあります。

死刑を宣告されたペリー、そして終身刑となった彼の友人ジェイソン・バケットの二人のインタビューを中心に、この事件に関わった多くの人たちのインタビューが示されていく中、しかし、作品の興味はそれが殺人であれ死刑であれ、人の命が奪われることの重さであり残酷さです。

唐突に命を奪われた被害者、その残された家族の悲しみ、あるいは理不尽な犯罪への怒り、そして自らも獄中で息子の犯罪を知り、法廷で辺り構わず号泣したというバケットの父親。ここには、他人の生死を決定することについての抽象的議論ではなく、あまりに厳しくつらい事実の重みがあります。

わずか8時間分の撮影フィルムから作られたというこの90分の映画には、しかし無駄なショットが一つもありません。『イントゥ・ジ・アビス』は、他のヘルツォークの最良の作品同様、きわめて重く、厳しく、そしてあまりにも美しい映画です。

試写日記
『少年は残酷な弓を射る』
リン・ラムジー

「We Need To Talk About Kevin」と全く違うのでどうかと思った邦題ですが、いやこれはピッタリかもですね。萩尾望都感というか(笑)、そういう期待にもガッツリ応える作品かと思いました。面白かったです。

社会的問題を背景としつつ、それをあくまでパーソナルな視点、とりわけ殺人鬼の母親という極めて特殊な視点から描き出した作品で、親子関係の愛憎裏腹な支配ゲームとか、インセストタブーの匂いとか、まるで悪が具現化したかのような背徳的美少年とか。そういう映画。

少年の友人とか学校がラスト近くまでほぼ一切出てこない、さらにそれを言うなら、母親が現在身を置く現実と、こんなところにはいなかった筈の本来の自分という夢のほぼ2つしか映画には存在せず、その中で事件前と事件後とがあいまいに溶融しながら示されていく感じ。その徹底ぶりは面白い。

映画全体の構造とかスタイルも、そのあいまいで言葉にできない愛とか憎しみとかモコモコ描くことに重心を置いていて、レディオヘッドのジョニー・グリーンウッドの音楽がかなりポイントになってました。

サスペンスとか犯罪映画、フィルムノワールのファンとしては、とは言え一旦事件が起こってしまうと、そこでは取り返しの付かない社会性とか世界というものが露呈するし、その瞬間を見たいとも思ってしまいますが、まあそれは最後の最後まで明確には現れないという作りのストーリーではあります。

あと、ティーンエイジャーになってからの少年がガクトの十代の姿にしか見えない(笑)。声もそっくり。そんな少年が裸で弓を引いたりウンチもらしたりするんだよ(笑)。金髪の愛らしい少女がアイパッチしている痛々しい姿とか、いろんな嗜好をお持ちの方にアピールしそうだ(笑)。

そうそう。『少年は残酷な弓を射る』の冒頭って、日本映画の端正な青春映画にありがちな映像&音響で、それを悪意で置き換えるって趣向はなかなか悪くないと思いました。

もう一つ。ティルダ・スウィントンが全然似合わないダブダブのレッド・ツェッペリンTシャツ着て出てくるのですが、物語が進むと、さりげなく別の人物が同じ服着てる場面あったりして、その隠された意味が分かるという。女性監督らしい細やかな気配り演出ですね。

そうだ。昨日書いた『少年は残酷な弓を射る』の<社会性が露呈する瞬間>問題なんですが、少年的にはそれはラストまで曖昧で、でもティルダ・スウィントンにはあるんですよね。ただ、それって近所のお母さんからいきなりビンタされたり意地悪されたりするって瞬間で、これはつまり、具体的な人間の繋がりとしての社会性であって、いかにも女性的なものだと言うこともできると思うのですが、ただ、幻想とか夢とか悔恨とかが現実とない交ぜになったボーッとした状態から現実に引き戻される瞬間って、やっぱロングだろうと思うんですけど、この映画はそこまでカメラを引かないんですよね。

それはやはり社会性=多くの他者が行き交う即物的な空間という発想が男性的なものでしかないからなのか?それとも、その男性的発想によって築かれた映画のダイナミズムを無意識にこちらが欲してしまうからか?あるいは、それはやはり映画の重要な部分に触れる問題であって、その欠如はこの作品の限界として指摘されるべきなのか?はたまた、こうしたパーソナルの延長としての社会性が新たな映画の魅力として開拓されることに期待するべきなのか?(この作品はそこまで達していないと思う)

このように、一本の映画を取り上げその価値を検討するというのは、常に数多くの実に困難な問題を孕んでいるのです。無数の逡巡と決断を背後に抱えた言説の厚みこそ、映画批評と呼ばれるべきものの本当の魅力だと私は思います。

ハンマーと倒錯

ジャスミン革命なんかの時に盛んに言われましたが、ツイッターやフェイスブックなどのツールはハンマーで頭ガンガン殴られ続けるような毎日の中で、自分たちの満たされない欲求が何であるか既に明確になってる人たちが最後に繋がるのに有効なメディアなので、それに気づかせない機構が有効に機能している東京だと、気分による祭のような動員はあっても、なかなか本格的かつ定常的な動きには今のところ結びついていないと思う。

でも、例えば資本主義の酷薄な現場で身を削るように働かされている人たちだと、そのハンマーの存在が明確に見えるし、東京から少し離れた場所でもこれは同じ。なので、こういうマージナルな人たちがSNSを使うと意外にスムーズに連携できたりする。というか、それを今やろうとしている。

以前なら自分が属する趣味の共同体を離れた連携は殆ど想像できなかったものですが、これが今は比較的容易にできる。素晴らしいことだと思う。後は、このハンマーが本当はこれから一層残酷に打ち下ろされることになる筈の当事者から同様の動きがあればと願いますが、さあどうなんでしょうね?

あと、このハンマーというのはこれはこれでなかなか興味深いし学ぶべきところも多い。なので、ハンマー対オレって構図がそこにあるわけではなく、なんとかハンマーと共にある比較的快適な毎日を見出そうとしていると言えば良いでしょうか。だって二者択一じゃ消えるのこっちだし(笑)。

本来敵であるべき相手に対して、でもその正体を掴もうと色々観察したり考えたりしているうち、そこから学ぶところも多々あり、そうしたことを口にしていると、どうも周囲から裏切り者として見なされてしまうことが多い(笑)。いや、倒錯はあるでしょうが裏切りとかそう言うのではないです。

相手の正体を掴まず、自分が考える愚かな敵に向かって唾を吐き続ける人って好きじゃないんだよなあ。そういう姿勢って生硬さを生むし、一方的な間違いである場合も多い。ユーモアもない。でも、相手を深く知ろうとすると、どこかでそれを愛しているかのような倒錯が生まれる。ま、でも、実際にやってること見てよ。

「リュミエール」13号と愛について

人の趣味は千差万別です。たとえば情報が雑誌や新聞に限られていた時代は、ここにある種の物理的制約があり、その本質的にどうしようもない多様性が表面化しなかった。つまり、マスメディアに載った識者の意見が特別なものとして保護されてきたわけです。

ところが、インターネット時代はこれを根底から変えてしまった。誰もが気軽に発信できるとき、その一つ一つにはかつてのような重みは全くなくなる。こうした状況下にあって、どのように特別な存在感や言説の軽重が存在しうるか?これは言説に関わるものにとってきわめてクリティカルな問題です。

知性や議論に対するある種の敬意がある場所ではまだ良いでしょう。しかし、そうした場所にしたって、この本質的な多様性の問題は深刻です。問題は誰かが何か言ったという絶対的な事実性ではなく、こういう意見があるというマッピングに置き換えられて行ってしまうのですから。

自分の好きな映画を他人が好きだとは限らない。しかも、圧倒的な不毛さの感覚と共に、それらがすれ違ってしまうのが現代ってやつです。こうした状況下にあって、私たちはどうすべきか?どうやって自分の好きなものを押し広げていけばいいか?趣味を共有しない他人に見てもらえるのか?

こうした言説の全てが相対化され、重みを失い、歴史の抑圧が機能せず、教養の広い共有も無効であるとき、一体わたしたちはどうすべきなのだろうか?

これはきわめて重要かつ大きな問題であり、これが正しいとすぐに答えを書くことは到底不可能です。しかし、少なくとも何が駄目かは分かる。そして、いずれにせよ私たちは私たちの存在するこの時代この場所から出発するしかないことも分かる。

自分が好きなものを相手にも好きになってもらおうと思うとき、私たちはまず自らの熱意を示すしかないと思います。しかし、相手もまた同様の熱意を持って自分が全く好きになれない作品を薦めてきたとき、私たちはそれを下らない趣味だと言って馬鹿にできるのか?その優劣を担保するものは何?

たとえば、ヒッチコックやホークスは、当時単なる職人監督だとして重要視されていなかったにも関わらず、トリュフォーらは彼らこそ真の作家だとして擁護した。ここには価値の転倒があります。しかし、現代では同種の価値の転倒が無数にあるわけです。

私も見たことがないホラー映画や様々なものを取り上げ、これらこそが最も面白いという人たちはたくさんいます。まず、その無数にあり得る趣味の多様さの全てにはとうてい対応できない。次に、対応したところで勝ち負けが決まるわけではない。趣味の違いとして片付けるしかない場合が殆ど。

こうした本質的な多様性の状況は、一見良いことのようにも見えますし、実際良い部分も多いですが、しかし同時に全てが一斉に駄目になってしまう危険性もそこにはある。映画の場合、その可能性は極めて高い。経済的インフラに依存する部分が大きいからです。

左翼は政府の批判だけしておればそれでよろしい、ってのは、なんだかんだで国が上手く機能しているときだけだと私は思います。同様に、映画を支える様々なものの底が抜けようとしているとき、それを愛する私たちもまた変わらなくてはいけないのではないか?

近代化の中で、かつて手作業で作られていたものの多くが工業製品に置き換えられていきました。そしてそれらは味気ない大量生産品だとして蔑まれまることもありました。ところが、そうやって作られた過去の工業製品に現代の私たちは「魂」を感じて昔は良かったと言ったりもするのです(笑)。

自分が愛するもの、歴史、教養、これら全てを捨てるべきと言う意味ではありません。しかし、それらを他人にも愛してもらうためのルールや作法全てが変化したと思うのです。私たちに必要なのは創意工夫です。そして同時に、これらを自分の身元保証として使うことは、たぶんもうできない。

まあ、自分でもひねくれ者だなあと思わないでもないです(笑)。でも同時に、自分があんまり好きじゃない映画を本気で擁護してるアメリカとかの論評読むと、なるほどそういう愛もあるかとなびいて肩入れし始める自分がいるのも本当なんですよね~

蓮實さん山田さんが編集した「季刊リュミエール」でも、ウェイン・ワンの『スラムダンス』を表紙にした13号に一番インパクト受けたし。それは、彼がさほど重要な映画作家とまでは成長しなかった現在から振り返ってもそう。あれはとても勇気ある決断だったと思う。そしてそこに愛を感じる。

映画に対する愛というものを、また別な形で教わった気がします。そしてそれはとても重要なものであり、あの当時も、そして現在に至るまで十分に議論されてこなかったものだと思っています。

「リュミエール」全巻持ってる人は、是非表紙を上にして床に並べてみてよ。13巻だけ異様に浮くから(笑)。でも、こういう感性を育んでくれたのもまた映画だって気がするんだよね。

自分の一部のように近いと思っていたものと自分との間に絶対的な距離が介在し、でもその事実を時には笑いと共に享受することができるような瞬間であり感性。こうしたものも映画は私たちに教えてくれた筈。なのに、何故かそれだけは忘れさせる機構が存在する。それこそが問題だと思う。

ツイッターやフェイスブックで繋がる若い人たちには想像もできないかも知れないけど、かつては「特別な共同体」ってのが濃厚に存在したんですね。そこでは「分かってる」人たちだけが集い、誰かをパーティに呼ぶ呼ばない、メンバーとして認知するしないが極めて重要な意味を持つ。

本当に分かってる者だけが集うから他者を排除するのか、それともそうした領域化と排除のプロセスこそが自分たちが「分かってる」少数者だというプライドを作り上げるのか。曖昧な部分が大きいとは思いますが、仮に後者だとしてもこうした共同体に全く意味がないとは私は思いません。

こうしたエリート集団が社会的に機能しある種の生産性を高めることに寄与した時代とケースが間違いなく存在したからです。

ただし、今は全くそうした時代ではありません。誰かのパーティに呼ばれたいと考え言動に気をつけ従順に振る舞い修練を積もうなんて考える人はもはやいませんから。そして、これはとっても良いことだと私は個人的に思います。自意識過剰な集団の陰湿さには嫌な思い出しかありませんから。

一方、ツイッターやフェイスブックでの繋がりはこうした過剰な自意識から解放されているとは言え、逆に過剰に無縁なものとなりすぎている側面もある気がします。そこでは、一貫した価値観や基準といったものがまず醸成されない。

両者がお互いに認め合い利用し合い、生産的関係を結ぶことができればと思うのですが、事態はまず逆になりますね。昨日も書きましたが、お互い変わらなければこれはどうしようもない。そして、今ここで自分を変えることは一つの贈与であり愛となる筈なのです。誰が今愛を示すことができるか?私たちが今問われているのは、そうしたことなのではないでしょうか。