試写日記(暫定版)
試写日記(暫定版)
あとでバージョンアップする予定の試写日記
タイトルだけ忘れないうちに
『ナイン』シェーン・アッカー
『処刑人II』トロイ・ダフィー
『グリーン・ゾーン』ポール・グリーングラス
『風にそよぐ草』アラン・レネ
『六つの心』アラン・レネ
告知関連、まとめて書いておきます。 まず、現在発売中の「キネマ旬報」3月下旬号に原稿を書かせていただきました。 「評論家発」という連載枠。 今後も、一号おき、下旬号の方に掲載される予定です。 http://www.kinejun.com/index.html 初回で取り上げた作品は、ヴェルナー・ヘルツォークの『バッド・ルーテナント』。 自分で言うのもなんですが、なかなか面白い文章になっているのではないかと。 正直、密度が違います。 テンション高いです。 「評論家発」というコーナーは、すでに公開済みの映画に対する<批評>を行う枠として用意されたもので、そのため、かなり自由にあれこれ書くことができます。 対象作品を見ていない人に対して、その興味を喚起することはもちろん、それ以上に、作品から拡がるさまざまな批評的問題について書くことで、映画を見るたのしみを2重3重に大きくするような文章を書きたいと考えています。 因みに、この号は『ハート・ロッカー』特集になっているのですけど、来月、4月下旬号で掲載予定の「評論家発」でも、この作品を取り上げています。 旅行中に締め切りが来るため、既にあげちゃってるんですが、こちらもまた、たいへん評判になった原稿で、って、よく臆面もなく自分で書くものだと思いますけど(笑)、本当なんだから仕方ないですよねえ。 いやあ。 我ながら、面白い文章を書きました。 『ハート・ロッカー』については、同じく現在発売中の「ENGINE」という新潮社の車雑誌でも短い文章を書かせていただいてます。 http://engine-online.jp/index.html こちらは、映画見てない人向けに、ちょっと切り口かえて書きました。 3月19日(金)に発行予定の「buku」最新号では、連載「資本主義社会のエッジを生きない」第13回が掲載されます。 http://www.c-buku.net/ こちらでは、『アバター』からはじめて、いろんな作品に触れた文章になっています。 しかも、映画だけじゃないという。 浦沢直樹なんかについても書いてたり。 さらに、後半ではアラン・レネ全作上映を主題にしたものとなっており、いかにしてジェームズ・キャメロンからアルノー・デプレシャンを経てレネの最新作へと論述が及ぶのか、そのダイナミズムを楽しんでいただければと思います。 これまた、とっても充実した文章になりました。 2月20日に行われた[Lehrstucke 05](映画研究ゼミ@早稲田)のログがアップされました。 http://lehrstucke.ecri.biz/?p=181 当日、twitterで何人かが記録したtsudaログをまとめたものです。 1万字超えという、驚異の分量! 内容は、自己紹介という名の映画雑談と、『インビクタス』とジャック・ロジエ。 そのかなりの部分を私の発言が占めてますが、実際、現場でも半分以上喋ってる印象で、今回の場合、正直、後半では多少ウトウトしちゃってました(笑)。 疲れますよ、そりゃ。 映画雑談では、恋愛映画がテーマになっていて、これ、面白いと思いますよ。 シネフィルの男の子たちが語る恋愛映画論と、それを斬りまくるわたし(笑)。 是非、お読みください。 ロジェと言えば、現在、ユーロスペースでアンコール上映が行われている最中ですけど、なにせ、最終週の入場者数が1週目の倍以上だったらしいんですよ。 http://www.eurospace.co.jp/detail.html?no=264 素晴らしい! 作家のネームバリューは劣っても、こうして本当に良い作品を丹念に上映すれば、その素晴らしさが口コミで伝わって、最終的に多くの人に伝わるものだということが、あらためて証明されたのではないでしょうか。 こうした活動が今年はもっとたくさん増えて、その一つ一つがきちんと実を結んでくれればいいのに、と願わずにはおられません。 あと、インタビュアーを担当させていただいた「黒沢清の映画術」ですが、刊行3年ということで、新潮社規定により絶版となりました。 現在書店に置かれている分がなくなっちゃうと、その後入手困難になることも予想されますので、この機会に是非一冊入手していただければ、と思います。 以上、もろもろ、どうぞよろしくお願いします。
先日、電車の中でしきりにマタイセンの話をしている男の子たちを見かけて、たぶんサッカーオランダ代表のヨリス・マタイセンのことだったと思うのですけど、あれですね、世代的にマタイセンマタイセン聞かされると、どうしても『幻魔大戦』とか思い出しちゃいますよね。キース・エマーソンのサントラとか、頭の中で鳴り響いたり。やや迷惑かな。 そうそう。サントラといえば、『シャッター・アイランド』のは、例によってロビー・ロバートソンが監修しているみたいなんですけど、ティム・ホジキンソンの曲とか使われていて、ビックリしました。 それと、マタイセンからインパクトある名前で行くと、さいきん、薬局でしばしば試供品をもらえる恵命我神散という漢方薬があるのですけど、これがまた、ケイメイガシンサン。インパクトある名前だと思いません? ガシンサンですよ。ガシンサン。言うか、普通? わたし的には、スタン・ガッシンガーとか、そのレベルに達してますね。 言葉の響きがすごい。 マジンガーZともちょっと似てるかも知れませんが、いや、違うな。 ここで頭にマを置くのは、やっぱ日和ってるんですよ。マシンとかマジンにかけてるわけですし。 でも、ケイメイガシンサンとかスタン・ガッシンガーってのは、音がひたすら乾いていて、こちらにつけいる隙を与えない。 なんかね、昔の音効さんが命削って作った怪獣の鳴き声とか、そういう感じかなあ、と。 赤影で登場したカブトムシの怪獣アゴンの鳴き声とか、たしかこんな響きじゃなかったでしたっけ? ケーメー、ガシンサーンとか。 スターン、ガッシンガーとか。 ともあれ。 先週土曜日の[Lehrstucke 05]に参加してくださった皆さん、ありがとうございました。 面白いイベントになったと思います。 twitterでtsudaログとってあるので、たぶん近日中に[Lehrstucke]サイトの方にアップされると思います。 次回は、一月とばして4月に開催予定。 内容など決まり次第、また告知することにします。 試写日記 『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』 今度は主人公が成長しちゃっても大丈夫な『ハリー・ポッター』として、クリス・コロンバスが取り組んだ新たなフォーマット。 俗世間に生きるダメな少年が、でも実は選ばれた人間であることにある日気づいて、それでまあ、いろいろあって成長しますよ、って話。 今回も3人組ですね。 因みに、主人公が津波しょってグゥバーって構えてる例のチラシの写真、警視庁の防犯ポスターに使われていまして、この絵柄の上に「万引きはダメ」って書かれてるんですが、いや、万引き程度にこんな圧倒的な力見せつけてちゃ、そっちの方がやばいでしょ?どう考えても。 『17歳の肖像』 あ、こういう映画だったのか。 割としっかり作ってあります。 やや生真面目かな、という印象もありますが。 主人公の少女だけが頭良くて魅力的で、馬鹿なことしちゃうんだけど、でもそれを乗り越えることでもはや最強になっちゃうのよね、あたし、って物語。 シニカルな人って、しばしば、世界に対するロマンは抱かないのに、自分に対するロマンは最後まで捨てないんですよね~。 『クリスマス・ストーリー』 アルノー・デプレシャンの最新作。 見たの2回目ですが、すっごく複雑な物語なので、最初見たとき以上にあれこれ分かって面白かった。 もちろん大傑作ですよ! ムッチャクチャ素晴らしい! 必見です。 どっかで何か書くつもりなので、このへんで。 『リグレット』 セドリック・カーンの最新作。 これまた、ものすごく面白い。 傑作です! 『チャーリーとパパの飛行機』で、一時はすっかり嫌になった監督さんですが、やっぱ、本来の規模で撮られたこういう作品は本当に素晴らしい。 物語は実に凡庸なのに、全ての場面できらめくようなアイディアの数々と、繊細きわまりない演出の冴えを見せてくれます。 トリュフォーの『隣の女』だよなあ、これ、とか思いながら見てて、上映終わった後資料に目を落としたら、やっぱそうだったみたいですね。 主人公のイヴァン・アタルはゴダールにしか見えないし(笑)。 一言で言えば、ゴダールのバイタリティで撮られたトリュフォーの恋愛心理ものって映画です。 この作品で、ヴァレリア・ブルニ・テデスキの魅力がはじめて分かりました。 必殺の上目遣い! ビーム出てましたね。 セドリック・カーン的には、『倦怠』のラインに戻って前作の垢を落とした感じじゃないでしょうか。 日本公開の予定がないので、フランス映画祭で絶対見ておかなくちゃいけない作品ですね。 『シャッター・アイランド』 マーティン・スコセッシが、ふたたびレオナルド・ディカプリオと組んだ新作。 普通に良くできたミステリ映画です。 脳科学者は、正直関係ない(笑)。 スコセッシとしては、割とカッチリ仕事した作品って感じでしょうか。 以前は、むしろこういうので足下ふらつくことが多かったですが、そんな印象は微塵もなかったですね。 面白いです。
本日は、五反田イマジカで冨永昌敬『乱暴と待機』の内覧試写。 はじめに前提を述べておくと、わたしは、今までのところ冨永昌敬を天才的な短編映画作家とみなしてきていて、それは、中編『シャーリー』あたりまで適用されるものだったのですが、今回、ついにその定義に変更が必要になったようです。 『乱暴と待機』、面白い。 とりわけ、中盤以降の展開は本当に素晴らしかったです。 まず、役者がみんな良いというのがあって、とりわけ小池栄子と山田孝之にはずいぶん助けられてるなあ、という印象も序盤にはあったのですが、いや、公開は秋になるようなのでストーリーには触れませんけど、やはり中盤以降ですね、美波と浅野忠信が前景に出てくるようになって、そこから先はもう怒濤の展開でした。 もちろん役者も素晴らしいし、ストーリーも面白いのですが、それより何より、映画がその全てを先導し、自らの力と自らの権利において(完全に、とまでは言わないものの)きわめて充足した走りを見せていました。 言い換えるならば、感情が乗ってましたね。 映画に力が漲っていた! ああ、ついに冨永のこういう長編作品を見ることができたか、と。 『乱暴と待機』は、冨永昌敬の劇場用長編映画として、真の意味での処女作だと言われるべきです。 ここがスタートポイント。 しかし、少なくとも映画を愛する者であるならば、映画作家・冨永昌敬の新たなスタートを見逃すことなど、絶対に出来ないはずじゃないですか! 『乱暴と待機』、必見! 秋までこの傑作を見ることが出来ないという乱暴に耐えつつ、大きな期待と共に待機せよ!!
1930~40年代のハリウッドで流行した映画ジャンルの一つに、スクリューボール・コメディというものがあります。 ホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』とか『赤ちゃん教育』『僕は戦争花嫁』、キャプラの『或る夜の出来事』、ウェルマンの『ナッシング・セイクレッド』なんかがその代表作になると思いますが、基本的には、別名セックス・ウォー・コメディとも呼ばれるように、男女の恋愛駆け引きを面白おかしく、かつ、きわめて激しくハイテンションに描いたコメディ映画群を指すものです。 映画史上のベストを競うような傑作の数々がそこには含まれていて、何度見直しても新たな発見があるばかりではなく、さらにすごいのは、今見直しても本当に面白い。 いや、紋切り型の美辞麗句としてそうなのではなく、あるいは、シネフィル的な価値観としてのみそうなのでもなく、今普通に見て、今の感性でメチャクチャ面白いんですよ。 実際、以前テレビで共演させていただいた小段典子さんにオススメして、たいそうドハマリしていただいたという経験もあります。 また、大学の授業で抜粋を見せた学生たちの反応からも、同じ手応えは十分感じ取ることができました。 マジ面白いです。 未見の方は、人生で貴重な楽しみの一つを奪われたままでいるに等しいですから、今すぐにでもレンタル店まで走ってください。 それはともかく。 話は急展開しますが。 恋愛というのは、このジャンル名にもあるように、やはりセックス・ウォーであるわけですね。 戦争です。 お互い、地の利・時の利を生かしつつ、持てる知識と知恵のすべてを駆使することで、いかに相手を自らの張り巡らせた罠にかけ、その本陣を籠絡するか。 これこそが、本来、健全な恋愛のあり方というものであったと思います。 有り体に言うと、地の利とは容姿、時の利とは若さのことであって、この辺になるとドンドン生臭い話にはなってきますが(笑)、しかし、決してそればかりではないというのが、本来、恋愛という競技の持つ健全なスポーツ性であったのではないでしょうか。 恋愛とは、総合競技なのです。 しかし、こうしたことを口にすると、既に大きな反発がそこで生じるであろうと予想されるのですが、それは何故なら、セックス・ウォー・コメディならぬロマンチック・コメディのロマンチックというイデオロギーに、多くの方が無自覚なまま染まりきってしまってるからだと思います。 「誠実さ」のイデオロギーであり美学ですね。 「純愛」の物語。 これは、若い人ほどそうです。 いや、別にいいんですよ。 イデオロギーに染まっているから駄目だとか、そんな70年代な台詞を改めて口にしたいわけじゃないです。 まあ、自分が依拠しているものが何なのか、その好悪の判断、気分の原因は何に基づいているのか。 こうしたことは、盲目的に発して終わりにするのではなく、あらためて自らに問い直しておくべきだろうとは思いますけど。 イデオロギーそれ自体が、すなわち悪であるわけでは決してない。 それは、単純すぎる判断です。 それはともかく、恋愛が戦争であるとするならば、そこで重要になってくるのは、それが本当に戦争であるのか、ということです。 すなわち、お互い、自らの武器をちゃんと使えているか? ああ、因みに、わたしは基本的に戦争反対の立場ですけど、それは今関係ないので脇に置きますね(笑)。 男女の両陣営が、互いに自らの権利としての武器を、きちんと行使できる状態にあるのか。 もし、そうなっていないとすれば、それは戦争ではありません。 虐殺です。 では、男女それぞれの武器とは何でしょう。 そんなの、個々のケースでそれぞれ違うのは当然の話ですし、安易に抽象化することの暴力性も十分に認識しているつもりですが、それでも敢えて抽象化するならば、それは主に、誘う側=声をかける側と誘われる側=声をかけられる側の立場の違いに由来するのではないかと思われます。 まず、誘われる側=声をかけられる側の武器とは、何か。 それは、いつでも相手を拒絶できるということ。 これは、きわめて強力な武器であり、ほぼ最終兵器に近いのではないかと個人的には感じます。 しかし、一方で、声をかけられる側とは、声をかけられない限り自らの権利を行使することもできない弱い立場であるわけですから、こうした強力な武器を所有することは理にかなっているともわたしは感じます。 また、自らが拒否権を行使する前に相手がそれを実行してしまうことのないよう、あの手この手で相手を誘惑し、自らの元に引き留めておくことも、これまた当然の戦略です。 相手側としては、なんて理不尽な話だと感じられることでしょうけれども、それは仕方ない。 恋愛のこうしたステージにおける、声をかけられる側の特権というものだからです。 逆に、では、声をかける側の武器とは何か。 それは、声をかけられる側とは反対に、最初の段階で相手を選ぶことができるということです。 受容的選択の自由ではなく、積極的選択の自由。 これこそが、声をかける側の持つ大きな攻撃手段であるわけです。 ところが、こちらの武器に対しては、ある防御装置が世の中には存在します。 とても強力であり、実践的にきわめて有効なもの。 それこそが、先ほど触れた「誠実さ」の美学でありイデオロギーであるのです。 もちろん、声をかけられる側の最終兵器=拒絶の権利に対する防御的イデオロギーも存在するでしょう。 しかも、それはしばしば同じものであったりもする。 しかし、少なくとも現在の日本において、それは、声をかける側に求められる「誠実さ」や「純愛」「赤い糸」のイデオロギーほど強力なものとはなっていない。 あるいは、いずれにしろそれは、声をかけられる側の利害関係において、本質的に好ましいものであるとも言うことができるでしょう。 実践的には、どう転んでも有利に使える。 そして、「誠実さ」のイデオロギーが強力であるのは、それが単にアンチ・ヴァイラスであるばかりではなく、むしろそれ自体、積極的にヴァイラスの役割も果たすということ。 いや、さらに言えば、現在の日本における恋愛イデオロギーのチャンピオンこそが、この「誠実さ」であり「純愛」というものであるとさえ、わたしは感じています。 「誠実さ」「純愛」「赤い糸」を持ち出されると、本来、積極的選択の自由という武器を持つ側の人間は、その能力を十分に行使することができない。 対抗兵器として、これほど強力で有効なものなんて、そうそうないと思いますね。 北朝鮮に対する国際世論の圧力など、目じゃないくらいです。 しかし一方で、声をかけられる側の者としては、自らの立場の弱さを克服するため、相手の攻撃能力を打ち消しておく必要が常に差し迫った緊急課題としてあるわけです。 また、一対一の関係としてさまざまな行動制限を設けられた側の人間が、個人的な関係を越えた社会的戦略としてこうしたイデオロギーを有効に活用するというのも、十分納得のいく当然の権利であると感じられます。 したがって、こうしたことからわたしとしては、「誠実さ」イデオロギーの君臨ぶりに対して、それ自体頭ごなしに否定しようとは思いません。 ただ、ヴァイラスに対するアンチ・ヴァイラスに対するアンチ・ヴァイラスというのも、やはり、歴史的には存在してきたわけですよ。 それは、忘れちゃいけないよね、と。 また、声をかけられる側の目線で言っても、相手に北朝鮮化されてしまって、それでいいのか? いいわけないですよね。 では、「誠実さ」に対抗しうるアンチ・ヴァイラスとは何か? それは、簡単に言って、表と裏、建て前と本音という奴です。 この辺りの積極的な戦略的価値、どっかで忘れられつつあるのではないかとわたしは危惧しています。 たとえば、最初に上げたようなスクリューボール・コメディで、ケーリー・グラントがキャサリン・ヘプバーンとかロザリンド・ラッセルのような女性と恋に落ちて、駆け引きをして、相手の心をつかむ。 そこで、映画のエンドマークから見るならば、グラントはひたすら誠実で、二人はもともと「赤い糸」で結ばれていたようにも見える。 それで誰かが満足し、その後の二人の人生が上手くいくのであるならば、それはそれで良いと思います。 大事なのは、結婚そのものではなく、その後に続く人生なのですから。 めでたし、めでたし。 イデオロギー万歳ですな。 ただし、それをエンドマークから見ることのできない人間、すなわち、スクリューボール・コメディのド真ん中を生きている人間にとって、それで万事めでたしとはならない。 なぜなら、それは戦争ではなく、虐殺を生むからです。 フェアな戦いとはならないからです。 では、フェアな戦いは、どこにあるか。 簡単です。 ケーリー・グラントの顔を見ればいい。 だって、こんな顔つきをした人が、腹に一物もっていないわけないじゃないですか! それを正確に見抜いていた監督の一人が、たとえばヒッチコックであったわけですよ。 しかし、それでもケーリー・グラントとロザリンド・ラッセルが恋に落ちてゴールインしたならば、二人は互いに誠実で純愛をして赤い糸で結ばれていた運命的なカップルなんです。 恋愛において、過程は結果に肯定される。 それ以上、深く考えない! それでいいんです。 ところが、一方で、じゃあ、現在ケーリー・グラントのような役回りをすることのできる役者がどこかにいるかというと…。 これが、全然思いつかない。 まあ、ベストなところでヒュー・グラントでしょうかね。 それでも、全然弱いですけどね。 ヒュー・グラントは、彼自身良い役者さんだと思いますけど、基本的にビルドゥングスロマンの人であると思っていて、それはすなわち、「誠実さ」のイデオロギーを味方につけてるということです。 だからこそ、今風のラブコメでも主役を演じ続けることができる。 一方、ケーリー・グラントもそれは変わらないのですが、ただし、彼の場合、いったん「誠実さ」の称号を味方に付けながらも、そのイデオロギーを根底から揺るがせてみせるような得体の知れない底の深さ、器の大きさを最後までこちらに感じさせ続けるのです。 単純に言って、世に言う「誠実さ」の美徳なんてものよりも、ケーリー・グラントの方がはるかに大きな存在であるわけですよ。 「誠実さ」「純愛」「赤い糸」なんて、ケーリー・グラントに比べれば、取るに足らないちっぽけなものでしかない。 そう。 だから、正確には表と裏、建て前と本音ではなく、器の大きさ、懐の大きさに関わる問題なのかもしれません。 清濁併せ呑みつつ、そのすべてを自分の味方につけながら、しかも、それ以上の存在であるとどこかで感じさせる要素を残す。 もちろん、誰もがケーリー・グラントになれる訳ではない。 誰もが、あんな得体の知れない大きな存在になんてなれはしません。 でも、少なくとも、それが美徳として、一つの理想として機能していないことには、その境地を目指すことすらできないじゃないですか。 世に言う草食系男子とは、しばしば、マッチョな支配原理に対する反発や嫌悪と「誠実さ」のイデオロギー世界における無力感との板挟みの中で獲得された、虐殺の積極的な受け入れというネガティヴ=ポジティヴな身振りの一つではないかと思いますね。 ネガティヴ=ポジティヴな身振りとは、そこで実質的には選択肢が不在しているにも関わらず、その不在を積極的に受け入れることによって、それがあたかも自らの自由意志であるかのように振る舞うことができる、というような意味です。 本質的に選択肢が欠落しているわけですから、そこでは肯定・否定の身振りが機能することはなく、共感の広がりと連帯のみが唯一の支配原則としてその場を支配することにもなるでしょう。 もちろん、持って生まれたかどうかは知りませんが、本来の性格として草食系がしっくりくるという人も多い筈です。 また、それが個人の精神的な平穏や関係性の安定を生むのであるならば、それはそれで良いのではないかと思いますが、しかし、個人的な観察による限り、どうやらそうとばかりも言えないらしい。 他に行き着く場所もなく、仕方なくそうした身振りを仮に選択する場合も多いのではないかと、わたしは見ています。 であるとするならば、ここでやはり「最低限の選択」「選択の不在の積極的な選択」というもの以外の選択肢を残しておくことも重要なのではないかと。 今ここで再び、ケーリー・グラントを思い出しておくことも、意外に大事なことではないかと思うのです。 世の中には、純愛映画のチマチマした男子たちのちっぽけな「誠実さ」ばかりではなく、ケーリー・グラントの「誠実さ」というものがあるのだと。 ケーリー・グラントは、自ら「誠実さ」よりも遙かに大きな存在であるにも関わらず、あえてそのイデオロギーに身を添わしてみせることができるほど、並外れた度量を備えていたのだと。 恋愛におけるケーリー・グラント主義というものを、いまここでわたしは提起しておきたいと思います。 恋愛に際しては、ケーリー・グラントを思い出そう。 人は「誠実さ」に身をなぞらえつつ、さらにそれよりも大きな存在になることができる。 あ、そうそう。 因みに、ここで書いたことのすべては、純粋に一般論に基づきます。 けっして、わたし個人の話を書いているわけではありません。 わったしは違いますよ。 ええ。 誠実ですもん(笑)。 純粋だし。 ほんとです。 それでは、このへんで。
Eric Rohmer (Jean-Marie Maurice Schérer) Date of Birth 4 April 1920, Nancy, Meurthe-et-Moselle, Lorraine, France Date of Death 11 January 2010, Paris, France Les amours d'Astrée et de Céladon (2007) Le canapé rouge (2005) Triple agent (2004) L'anglaise et le duc (2001) Conte d'automne (1998) Conte d'été (1996) Les rendez-vous de Paris (1995) L'arbre, le maire et la médiathèque (1993) Conte d'hiver (1992) Conte de printemps (1990) Les jeux de société (1989) (TV) L'ami de mon amie (1987) 4 aventures de Reinette et Mirabelle (1987) Le rayon vert (1986) Bois ton café (1986) (V) Les nuits de la pleine lune (1984) Pauline à la plage (1983) Le beau mariage (1982) (as Éric Rohmer) La femme de l'aviateur (1981) Catherine de Heilbronn (1980) (TV) Perceval le Gallois ...
試写日記(暫定版)
あとでバージョンアップする予定の試写日記
タイトルだけ忘れないうちに
『ナイン』シェーン・アッカー
『処刑人II』トロイ・ダフィー
『グリーン・ゾーン』ポール・グリーングラス
『風にそよぐ草』アラン・レネ
『六つの心』アラン・レネ
告知関連、まとめて書いておきます。
まず、現在発売中の「キネマ旬報」3月下旬号に原稿を書かせていただきました。
「評論家発」という連載枠。
今後も、一号おき、下旬号の方に掲載される予定です。
http://www.kinejun.com/index.html
初回で取り上げた作品は、ヴェルナー・ヘルツォークの『バッド・ルーテナント』。
自分で言うのもなんですが、なかなか面白い文章になっているのではないかと。
正直、密度が違います。
テンション高いです。
「評論家発」というコーナーは、すでに公開済みの映画に対する<批評>を行う枠として用意されたもので、そのため、かなり自由にあれこれ書くことができます。
対象作品を見ていない人に対して、その興味を喚起することはもちろん、それ以上に、作品から拡がるさまざまな批評的問題について書くことで、映画を見るたのしみを2重3重に大きくするような文章を書きたいと考えています。
因みに、この号は『ハート・ロッカー』特集になっているのですけど、来月、4月下旬号で掲載予定の「評論家発」でも、この作品を取り上げています。
旅行中に締め切りが来るため、既にあげちゃってるんですが、こちらもまた、たいへん評判になった原稿で、って、よく臆面もなく自分で書くものだと思いますけど(笑)、本当なんだから仕方ないですよねえ。
いやあ。
我ながら、面白い文章を書きました。
『ハート・ロッカー』については、同じく現在発売中の「ENGINE」という新潮社の車雑誌でも短い文章を書かせていただいてます。
http://engine-online.jp/index.html
こちらは、映画見てない人向けに、ちょっと切り口かえて書きました。
3月19日(金)に発行予定の「buku」最新号では、連載「資本主義社会のエッジを生きない」第13回が掲載されます。
http://www.c-buku.net/
こちらでは、『アバター』からはじめて、いろんな作品に触れた文章になっています。
しかも、映画だけじゃないという。
浦沢直樹なんかについても書いてたり。
さらに、後半ではアラン・レネ全作上映を主題にしたものとなっており、いかにしてジェームズ・キャメロンからアルノー・デプレシャンを経てレネの最新作へと論述が及ぶのか、そのダイナミズムを楽しんでいただければと思います。
これまた、とっても充実した文章になりました。
2月20日に行われた[Lehrstucke 05](映画研究ゼミ@早稲田)のログがアップされました。
http://lehrstucke.ecri.biz/?p=181
当日、twitterで何人かが記録したtsudaログをまとめたものです。
1万字超えという、驚異の分量!
内容は、自己紹介という名の映画雑談と、『インビクタス』とジャック・ロジエ。
そのかなりの部分を私の発言が占めてますが、実際、現場でも半分以上喋ってる印象で、今回の場合、正直、後半では多少ウトウトしちゃってました(笑)。
疲れますよ、そりゃ。
映画雑談では、恋愛映画がテーマになっていて、これ、面白いと思いますよ。
シネフィルの男の子たちが語る恋愛映画論と、それを斬りまくるわたし(笑)。
是非、お読みください。
ロジェと言えば、現在、ユーロスペースでアンコール上映が行われている最中ですけど、なにせ、最終週の入場者数が1週目の倍以上だったらしいんですよ。
http://www.eurospace.co.jp/detail.html?no=264
素晴らしい!
作家のネームバリューは劣っても、こうして本当に良い作品を丹念に上映すれば、その素晴らしさが口コミで伝わって、最終的に多くの人に伝わるものだということが、あらためて証明されたのではないでしょうか。
こうした活動が今年はもっとたくさん増えて、その一つ一つがきちんと実を結んでくれればいいのに、と願わずにはおられません。
あと、インタビュアーを担当させていただいた「黒沢清の映画術」ですが、刊行3年ということで、新潮社規定により絶版となりました。
現在書店に置かれている分がなくなっちゃうと、その後入手困難になることも予想されますので、この機会に是非一冊入手していただければ、と思います。
以上、もろもろ、どうぞよろしくお願いします。
先日、電車の中でしきりにマタイセンの話をしている男の子たちを見かけて、たぶんサッカーオランダ代表のヨリス・マタイセンのことだったと思うのですけど、あれですね、世代的にマタイセンマタイセン聞かされると、どうしても『幻魔大戦』とか思い出しちゃいますよね。キース・エマーソンのサントラとか、頭の中で鳴り響いたり。やや迷惑かな。
そうそう。サントラといえば、『シャッター・アイランド』のは、例によってロビー・ロバートソンが監修しているみたいなんですけど、ティム・ホジキンソンの曲とか使われていて、ビックリしました。
それと、マタイセンからインパクトある名前で行くと、さいきん、薬局でしばしば試供品をもらえる恵命我神散という漢方薬があるのですけど、これがまた、ケイメイガシンサン。インパクトある名前だと思いません?
ガシンサンですよ。ガシンサン。言うか、普通?
わたし的には、スタン・ガッシンガーとか、そのレベルに達してますね。
言葉の響きがすごい。
マジンガーZともちょっと似てるかも知れませんが、いや、違うな。
ここで頭にマを置くのは、やっぱ日和ってるんですよ。マシンとかマジンにかけてるわけですし。
でも、ケイメイガシンサンとかスタン・ガッシンガーってのは、音がひたすら乾いていて、こちらにつけいる隙を与えない。
なんかね、昔の音効さんが命削って作った怪獣の鳴き声とか、そういう感じかなあ、と。
赤影で登場したカブトムシの怪獣アゴンの鳴き声とか、たしかこんな響きじゃなかったでしたっけ?
ケーメー、ガシンサーンとか。
スターン、ガッシンガーとか。
ともあれ。
先週土曜日の[Lehrstucke 05]に参加してくださった皆さん、ありがとうございました。
面白いイベントになったと思います。
twitterでtsudaログとってあるので、たぶん近日中に[Lehrstucke]サイトの方にアップされると思います。
次回は、一月とばして4月に開催予定。
内容など決まり次第、また告知することにします。
試写日記
『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』
今度は主人公が成長しちゃっても大丈夫な『ハリー・ポッター』として、クリス・コロンバスが取り組んだ新たなフォーマット。
俗世間に生きるダメな少年が、でも実は選ばれた人間であることにある日気づいて、それでまあ、いろいろあって成長しますよ、って話。
今回も3人組ですね。
因みに、主人公が津波しょってグゥバーって構えてる例のチラシの写真、警視庁の防犯ポスターに使われていまして、この絵柄の上に「万引きはダメ」って書かれてるんですが、いや、万引き程度にこんな圧倒的な力見せつけてちゃ、そっちの方がやばいでしょ?どう考えても。
『17歳の肖像』
あ、こういう映画だったのか。
割としっかり作ってあります。
やや生真面目かな、という印象もありますが。
主人公の少女だけが頭良くて魅力的で、馬鹿なことしちゃうんだけど、でもそれを乗り越えることでもはや最強になっちゃうのよね、あたし、って物語。
シニカルな人って、しばしば、世界に対するロマンは抱かないのに、自分に対するロマンは最後まで捨てないんですよね~。
『クリスマス・ストーリー』
アルノー・デプレシャンの最新作。
見たの2回目ですが、すっごく複雑な物語なので、最初見たとき以上にあれこれ分かって面白かった。
もちろん大傑作ですよ!
ムッチャクチャ素晴らしい!
必見です。
どっかで何か書くつもりなので、このへんで。
『リグレット』
セドリック・カーンの最新作。
これまた、ものすごく面白い。
傑作です!
『チャーリーとパパの飛行機』で、一時はすっかり嫌になった監督さんですが、やっぱ、本来の規模で撮られたこういう作品は本当に素晴らしい。
物語は実に凡庸なのに、全ての場面できらめくようなアイディアの数々と、繊細きわまりない演出の冴えを見せてくれます。
トリュフォーの『隣の女』だよなあ、これ、とか思いながら見てて、上映終わった後資料に目を落としたら、やっぱそうだったみたいですね。
主人公のイヴァン・アタルはゴダールにしか見えないし(笑)。
一言で言えば、ゴダールのバイタリティで撮られたトリュフォーの恋愛心理ものって映画です。
この作品で、ヴァレリア・ブルニ・テデスキの魅力がはじめて分かりました。
必殺の上目遣い!
ビーム出てましたね。
セドリック・カーン的には、『倦怠』のラインに戻って前作の垢を落とした感じじゃないでしょうか。
日本公開の予定がないので、フランス映画祭で絶対見ておかなくちゃいけない作品ですね。
『シャッター・アイランド』
マーティン・スコセッシが、ふたたびレオナルド・ディカプリオと組んだ新作。
普通に良くできたミステリ映画です。
脳科学者は、正直関係ない(笑)。
スコセッシとしては、割とカッチリ仕事した作品って感じでしょうか。
以前は、むしろこういうので足下ふらつくことが多かったですが、そんな印象は微塵もなかったですね。
面白いです。
下の記事で告知しているように、本日[Lehrstucke 05]@早稲田を開催します。
飛び入り参加も可能ですので、是非遊びに来てください。
また、以下で[Lehrstucke]サイトから引用するように、議論の模様をtwitterで実況しますので、早稲田まで行けないという方も、フォローなどよろしく。
14時から、早稲田大学学生会館W505にて開催します。
まだまだ参加受付中です。ぜひお越しください!それから、今回もtwitterを利用して実況したいと思います。
いわゆる「tsudaり」をやろう、tsudaろうということです。今回は複数の個人のアカウントで同時にやるので、twitterをやっている方は、以下のアカウントをそれぞれフォローしていただくと、実況の全容が時系列に沿って読めるようになります。
http://twitter.com/tora_megane
http://twitter.com/tamadaken(上手くいきそうなら、ハッシュタグもつけます。)
もちろん、twitterに加入していない方でも上のアドレスで内容を読むことはできます。
ただしアカウントごとの個別のページを並行して見ないと、時系列に沿った実況の全容は分かりません……。
と言うとややこしいので言い換えますが、とりあえず以上のアドレスを全部開いておけば実況の様子が伺い知れます。場の議論の主旨や熱気が、実況によって少しでも伝わるように頑張ってみたいと思います。
今週末の2月20(土)、[Lehrstucke 05]を開催します。
早稲田を舞台とした映画の研究会もこれで5回目。
だいぶ軌道に乗ってきたでしょうか?
今回取り上げるのは、東京では今週いっぱいまで上映のジャック・ロジェと、クリント・イーストウッドの最新作『インビクタス』。
いつものように、それぞれ担当者から発表があったあと、全員での討議となります。
あと、実はその前に自己紹介を兼ねたやりとりもあるのですが、これが毎回結構な分量になっていて、ほとんどメインコンテンツの一つでさえあるほど。
前回なんて、正直、わたしはその部分だけで結構疲れちゃってました(笑)。
まあ、ほとんどずっと喋ってますからね。
頑張ってるよなあ>自分
みんなも、頑張ってる先生にどしどし励ましのお便りを送ろう!(笑)
ともあれ、[Lehrstucke]は学生や社会人を問わず、誰でも自由に参加できます。
映画について語りたい、映画について語り合う場所に参加したいという方は、是非一度遊びに来てください。
場所:早稲田大学学生会館
日時:2月20日(土)14:00~18:00
http://lehrstucke.ecri.biz/
参加希望者は、以下のフォームから連絡してください。
折り返し、実行委員の方からメールが届くと思います。
http://lehrstucke.ecri.biz/?page_id=19
よろしくお願いします。