映画についてのあれこれ101103

黒沢監督が3年ほど失業中だという発言があって、それに対してちょっと前に読んだTL上のどなたかの発言で、でも芸大で教授やってるしカメラあれば映画なんていつでも撮れるじゃんというのがありました。それは一方で真実だけど、もう一方で自分の問題としてもそれで良いのだろうかと思いました。

と言うのは、黒沢監督が3年映画を撮れないというのは、単なる著名監督のぼやきに留まるものではなく、つまり「中間の映画」が消失してるってことじゃないですか。「中間の映画」というのは、パスカル・フェランが使った言葉で、大作でも自主映画でもなく、ほどほどの予算で作家が自らの主体性を発揮して作ることのできる規模の作品のこと。

つまり、今自主映画を撮ってる人にとっても、単に売れて有名になりたいというのでなく、ハリウッドに進出するわけでもなく、作家として「次のステージ」を考えるとするならば、明確なターゲットとなる場所である筈。それが消失することの意味を考えなくてはいけない。

今、いろんな分野で「次のステージ」が消滅していて、それが社会的な構造組み替えに伴う現象であるならば、ある程度は仕方ないとは思いますが、ただし、その変容の後に映画が生き残っていけるのかを考える必要はあるでしょう。で、これはかなり難しい。いろんな意味で。

「次のステージ」が絶望的であるとき、人はしばしば小さな世界で内向きに自足するものであって、そう考えると昨今の自主映画の状況に対してもまた別の視点が生まれる。

例えば、仲間ぼめが問題なんじゃなくて、デプレシャンやスコリモフスキーと同じ土俵で戦うための戦略(あるいは少なくとも戦う意志)の欠如が問題。「次のステージ」をどこに見出して、たとえ困難であろうとも、そこで映画を実現するための戦略を考えて欲しいと思う。

今、自主映画撮ってる人のサクセスモデルってどういうのだろう?小さな劇場いっぱいにして関わったスタッフキャストが喜んでくれて、サブカル雑誌にコラム書いてインタビューされて漫画家とかと対談してオプションでキレイな女優と結婚してってそんな感じ?

少し前、文芸誌「B」に頼まれて30代くらいの映画作家3人とお話したことがあるんですね。その際、映画作家さまの馴れ合い話をありがたく拝聴するのが映画批評家の仕事だとは思わないので、私がやるなら批評的アプローチをするつもりですがそれでOKですかと編集者に確認を取りました。

そもそも、インタビューではなく、全体の仕切りと読者へのガイダンスは兼ねつつも、あくまで話者の一人としての参加という話だったのです。

で、話が始まって、あれこれ映画話を聞いてると、これがものすごく世代ありきの仲良しトークって感じでした。学生の頃にはジャッキー・チェンが大流行で、とか、そういう。前提としてこれら監督たちの作品が好きな人にならキャピキャピ受けるでしょうが、それ以外の例えば私には「へー」って感想しかない。

批評家と話すって構えも感覚も持ってない人たちだと思いました。映画批評家不要論ですか?(笑)

ともあれ、それはすごく射程が狭いと思うし、その小ささは作品内容にも反映されてないでしょうかね?というかなりきつめの話をギリギリ場の雰囲気が許す範囲で繰り広げるというかなり批評的な綱渡りをしたつもりです。

ところが、それが全部、編集部によってカットされちゃった。雑誌としては、仲良し同世代の馴れ合い映画トークをゆるゆる掲載したかったってことなのでしょうけど。で、今やそういうユルイ馴れ合いの雰囲気があちこちに漂ってる。

仲間ボメか批判かなんてどっちでも良いんですよ。逆に、批判したり罵倒して殴り合いつつ、でも、呑めばあいつだって良い奴ジャンみたいなコミュニケーションで成り立ってる業界もあるわけですし。私はそういうの大嫌いだけどね。

本当に重要なのは、どういう文脈でどこに目標を置いているかってこと。批判であれ擁護であれ、その対話が成立する場所自体の次元が問われるわけです。

デプレシャンやスコリモフスキーだけでなく、フォードやホークスやルノワールやゴダールやルビッチや小津が撮った映画というものを自分たちも作ろうって訳でしょ?そこにはそれなりの覚悟ってものが必要ですよ。

野心剥き出しにしろってことじゃなく。私も正直そういうの嫌いだし(笑)。でも、例えば今日、早稲田の学生と一緒に『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の一部を見たのですが、あの作品なんて、仲間内喜んでサブカル雑誌でとか、そんなこと絶対考えてないじゃないですか。そういうことだと思う。

一方、先日のキネ旬でやった冨永昌敬インタビューは、後半、彼の近作への批判を含む質問と今後への期待みたいな話を振って、その場に宣伝部の人もいたので正直かなり微妙な空気にはなったのですが(笑)、冨永君はキチンと答えてくれたし、キネ旬もそのまま載せてくれました。

だから、仲間内で馴れ合って女優と結婚できればラッキーという人(笑)は、まあ好きにしてれば良いと思いますけど、でも、たとえば選択肢の問題として、デプレシャンやゴダールやオリヴェイラの新作見て、個人的な楽しみとしてアメリカ映画見て、その上そういう人たちの映画まで見るための時間なんて私にはない。

外部と関わるのって、まず言葉じゃないですか。自分がやってることの意味を映画史や様々な状況や同時代の作家たちの間でキチンと言葉にしてプレゼンできなければ意味ない。仲間内で、でもあの人すごいと思うとか、それが通用しないのが外交ってやつでしょ。

言葉だろうが顔芸(笑)だろうが人付き合いだろうが、おお、こいつの映画は見なくてはって思わせてナンボじゃないでしょうかね?で、世界の多くの映画ファンにそう思わせる必要あるわけですよ。映画作家として世界でやってくためには。

フランスはうまいですよ、やっぱその辺。一方、アメリカは金があるし規模が違う。日本は、これまでのところエキゾチシズムとして「発見」されるのを待っている状態が続いてましたが、今はその波が遠のいてる。じゃ、どうしようという選択肢がそこにある。

ま、そんなこと言いつつ、話題になってて何かの理由ででもその作品見て、実際すげえとか思ったら勝手に大騒ぎしますけどね。節操ないのが批評家って人たち(笑)。

自分に好意を持ってくれる味方にではなく、自分から遠い敵にでもなく、自分に関心のない普通の他人に向かって話しかける言葉を持って欲しいとは思います。これは映画関係なく、いろんな場面に当てはまるけど。

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