学校と一般社会についての雑記

さて、学校と一般社会について、[一般論として]幾つかの私見を記しておきたいと思います。

学校は、名目上、若者を教育する場としてあります。研究者・教育者の社会的保持という目的もありますが、これはやはり副次的なものだと考えます。それに対して、一般社会は違います。そこでは、場所自体ないしそこで提供される商品やサービスのクオリティが最優先されます。若者の育成は、正直、二の次三の次です。

例えば、学園祭に遊園地なみの娯楽とサービスを期待して出かける観客は存在しないでしょう。また、学園祭に招かれるゲストという立場からも、そこで一般的なイベントなどで期待されうる扱いや報酬は得られないことをあらかじめ了解した上で参加するものです。つまり、そこは[学校だから][学生だから]というフィルターによって保護されている。逆に、一般社会ではそれが存在しないのです。

ここで、しかし若者にとってはそれが学校であれ一般社会であれ、自分にとって心地よい環境であることが望ましいのは言うまでもありません。若者が心地よいとは、自分の未熟な言動を柔軟に許容するだけの大きな器が備わっている、ということです。学校はそうあるべきでしょう。しかし、一般社会はどうか。もちろん、それは望まれるべき特質の一つではありますが、やはり最優先のものではない。

むしろ、若者に最大限に配慮することで、技術や経験の蓄積が損なわれ、歴史ある文化や奥行きある教養、知性へのリスペクトが徹底的に失われている状況こそ、今の日本のありのままの姿だと言うべきではないでしょうか。しかも、それは器の大きさに起因するものでは全くありません。単に、一定のラインとして示しうる蓄積の力や姿勢の正しさといったものを、誰もが失ってしまった結果だと言うしかないのです。

しかし、一般社会は学園祭であってはいけない。そこではやはり、最低限達成されるべきラインがあるべきだし、蓄積や豊かさの美徳が尊重されてしかるべきだと思います。そうしたとき、物事の歴史や背後関係のネットワークに熟知しない若者が、軽はずみな言動によって何かのラインを無にしたりバランスを損なったりすることなどあれば、社会は彼らに対してどう対応すべきか。

かつて、こうしたときに相応しい一言というものが存在しました。「十年早ええよ」というものです。この言葉はしかし、そう言われても十年我慢しようという若者側の自己規制と、実際にその十年未熟さをカバーし続けようという社会の側の堅固さと余裕の双方によって保証されるものだったのです。

これら全てが失われてしまった現在、その言葉は全く有効ではありません。しかし、その言葉が口にされなくてはならない状況というのは、現在でも、いやむしろ、より頻繁に発生していると言うべきでしょう。

たった一言で未熟さを諫めるべき言葉を持ち合わせない社会は、従って、あれこれ時間と言葉を費やし、その言葉の周縁をひたすら迂回しつつ、それだけは口にしてはならないという禁忌に耐え続けなければならない。

しかし、若者はその迂回を我慢することが出来ない。一言で言えよ、ロックしろよ、と彼らは言うでしょう。しかし、一言で言えないし、言ってはならないし、ロックできないのです。そしてそれにも関わらず、我々にはラインもバランスも蓄積も、やはり必要な筈なのです。ここに、私たちのアポリアがある。

以上、ここ数日で考えていたことをまとめておきました。ところで、こうした一切と関わりなく、また別の視点からこういうこと考えてみたりもします。やっぱ、魚は養殖魚より天然物に限るよね、と。

You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

コメントをどうぞ

XHTML: You can use these tags: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>