試写日記080923

Eagle Eyeスピルバーグの製作総指揮、D・J・カルーソ監督による『イーグル・アイ』。
面白かった。

微妙に覚えにくい名前だと思っていたシャイア・ラブーフですが、これだけプッシュされまくりだとさすがに覚えることができました。
が、いまのところ、その魅力がいまいち伝わってきません。
『トランスフォーマー』よりは、少し大人の顔になってきたかな?

D・J・カルーソの前作『ディスタービア』は、ハイテク時代の『裏窓』って感じの作品でしたけど、今回は、同様にハイテク時代の『知りすぎていた男』&『北北西に進路を取れ』ですね。
おもっきしヒッチコックやってます。
元ネタ知ってると、おお、あれをこう使ったか、という感じで結構笑えると思います。

「buku」最新号の連載でも書いたのですが、『ハンコック』とかこの作品とかで見ることのできる<映像に満ちあふれた世界>の問題、遍在する映像の問題って、実は結構重要なものだとわたしは考えていて、と言うのは、映画にとって、それが<特別な映像>であり、そこに映し出されているのが<特別な人であり事件>であることは、自らの成立与件において致命的に重要な役割を果たしていたから(このあたり、「buku」掲載の「資本主義社会のエッジを生きない 第7回」で多少詳しく書いています)なのですが、それがどうやら、今や世界の側から裏切られてしまっている。
言い方を変えるならば、現在の世界のありようそのものが、ある意味で、映画の根底を揺るがしてしまっている側面があるわけです。

『ハンコック』やこの『イーグル・アイ』という作品に見られる、やや不思議な佇まい、ないし亀裂のようなものは、おそらく、そうした地殻変動に対する映画の側からのひとつのリアクションであり、自らの過去への検証を含めた、新たな関係性への模索であろうと思うのです。

したがって、それは単に、お馴染みの美的範疇を新たな世界の表情に合わせてアップデートしただけのものでは決してない。
それは、わたしたちが生きるこの世界の中で、いかにして映画自身がこれからも生きていけばいいのか、そうした再帰的な問いかけを含む一つの実験であるのです。

(実験は、その問いかけの質と射程、その可能性、その動きのダイナミズムにおいてこそ見られるべきものでしょう。実験に「答え合わせ」をしてしまうのは、過去の価値基準に絶対的な基盤を求めがちな者が犯してしまう、典型的な過ちの一つです。)

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