映画愛好について

昨日のアサイヤス監督インタビューは、もちろん『カルロス』について聞くことが主目的でした。本日、東京日仏学院ですでに上映がはじまっていますが、見逃した方も来週もう一度上映されるので、是非ご覧になってください。素晴らしい作品です。
http://www.institut.jp/ja/evenements/11152

インタビューでは、『カルロス』についてその全体像から細部に至るまで、いろんな話をお伺いしたのですが、流れの中で、アサイヤス監督の『パリ・セヴェイユ』や『冷たい水』といった旧作を参照しながらその問題を二人で考える場面も多かったのですね。

それら旧作というのは、例えばもう20年も前に見た作品であったりするのですが、フランスで作られた作品を私が一人で孤独に東京の映画館で見て、これはこういう映画だろうと勝手に考えた内容を、ずいぶん年齢を重ねた後アサイヤス本人の前で話してみて、深くうなずいて同意してもらえたりする。

もちろん、そのアイディアというのは20年前そのままではなく、年月を経て自分の中で変化したり深化したものだと思うのですが、そうした参照があることで、最新作『カルロス』に対する視点に別の層が付け加えられ、議論にも深みが増すわけです。

結局、シネフィルの喜びというのは、こういうものじゃないかと思うんですね。それは単に映画の知識や教養を収集して自慢するのが目的なのではなく、本来時間の芸術である映画というメディアの外側に、さらにもう一つの大きな時間の流れを作り出す。私たちが生きる現在に奥行きをもたらす。

こうしたことが可能になるのは、ある意味で選良主義が機能しているからです。今目の前にある多様な現在を瞬間瞬間で消費するのではなく、一人の作家、一本の映画を選び出し、それを何十年も抱えて生きて行くからこそ、こうした奥行きを持った映画の見方、作家との対話、議論の深みが生まれてくる。

映画というのは、実に複雑で深みも奥行きもあって、さまざまなアイディアや視点や生き方そのものをそこから引き出すことの出来る、あまりにも巨大な器であり可能性の塊なんですね。これは、多くの観客が一つのスクリーンに集中して見るという、その技術的・原理的な下部構造によって支えられている。

ところが、現在、その複雑さと奥行き、大きな時間の流れが失われつつあるように私は感じています。それは時代的な一つの必然なのかも知れませんが、本当にそれで良いのだろうか?時代だからと諦めてしまうには、それはあまりにも美しく貴重なものであるように思うのです。

映画がデジタルに移行することで、この喪失のプロセスは加速されるように思います。単にスクリーンでフィルムを見る体験だけが失われる訳じゃないのです。むしろ、こちらの方がずっと大きな問題ではないかと私は感じる。

デジタルでマイクロ興行が可能になる。数人の友人たちが集まって、素晴らしい音響と映像で動画を楽しむことが出来る。とても良いことだと思います。しかし、そうしたパーティが無数に分衆化された様々なクラスタで日々繰り広げられるとき、それらの作品は20年後30年後まで残っていくでしょうか?

あるいは、友人たちと共有して楽しむこと、心を寄り添わせることを目的として作られた作品と、20年後30年後まで観客の頭と心の中に残るような奥行きを持った作品とは、やはりどこかでそりが合わないのではないでしょうか?

前者が悪いとは言いません。しかし、後者もまた世界に存在して欲しいと私は思います。そういうものこそが私の愛する映画というものであったからです。それは、時代の変遷の中で失われて欲しくない。生き残って欲しい。

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