ガラパゴスとロールモデル

フランスの映画批評家は、常に自国の映画を充実させて海外に売ることを考えてる。そりゃもうゴリゴリに考えてる。アメリカだと、自国の次世代の才能をハリウッドやテレビに売ることがまず最優先の課題になる。そのために新たな才能を育て批判し競わせ磨きをかける。これもゴリゴリですごい。

たぶん、日本の映画ジャーナリズムに必要なのもこの戦略であり危機感であり生存競争であり、そして何より有効な「言葉」だと思う。海外に売るとき、内側で有効なイメージや雰囲気や感覚は通じないと思うべき。有効な言葉を生み出し、それを届けるべき対象にキチンと届けられる場所も必要。

その全てが今の日本にはない。それを作るのは本当に大変だけど、それ以上に、こうした危機感や必要性を感じている人間の少なさも問題。映画作りの現場と批評の言葉の対立とか、そんな低いレベルの話でグズグズやってる時じゃない。

あと、映画はやっぱりガラパゴスじゃやってけないと思うんだよね。内需とデジタルとライブハウスくらいのサイズで支えられるくらいまではそれで良いと思うし、そのムーブメントの面白さを否定はしないけど、でも同時に、大文字の世界と歴史を舞台に闘ってる新作映画というのがリアルタイムで外から入ってくるし、アーカイブで上映される。それらとの関係を切り結ぶ線が何もないのであれば、両者(映画を撮る喜びと見る喜び)はそれぞれの安全地帯に乖離するだけ。

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ゲームに関して言えば、実はCoDみたいなAAA系よりもMinecraftの衝撃が遙かに大きいと思う。サイト見てもらえば分かりますが、殆ど個人で作ったこんなシンプルなアイディア一発のゲームが世界を制した。しかも、内容的にはバーチャル世界での生活&チマチマした工作というUOからプレイヤー同士の戦闘(PvP)を抜き取ったようなものであり、グラフィックも8bitオマージュそのもの、つまり、何故これが日本から出なかったのかというものであり、しかもそれはやはり絶対に今の日本からは出てこなかっただろうとも私は思う。そこがショッキング。 http://bit.ly/MbNEW

つまり、ゲーム界でのMinecraftに相当するものを日本の映画界から出すには何が必要か、あるいは今の日本のゲーム界は何故これを出せなかったのか、それを具体的に考えるのが重要だと思う。

と言うわけで、「レナ・ダンハムとMinecraftから(日本映画について)考える」というアイディアはどうだろう?いや、他にも手がかりがあると思いますけどね。

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先日のユニジャパンではロールモデルの話も出たんですが、その際に詳しく話すことが出来なかった部分をちょっと書きます。

80年代あたり、日本の自主映画には沢山のロールモデルがあって、それぞれいろんな欲望とその成就形態を現在進行形で私たちに感じさせていました。たとえば、黒沢清監督はその一人ですよね。そしてそこでは、映画を見る欲望、語る欲望、そして撮る欲望がかなり幸福に調和していた。

その幸福感は、『スイートホーム』で一つの頂点を迎え、と同時に一つの挫折を経験するわけですが、黒澤監督本人はその後テレビやVシネなどを経て『CURE』あたりで再び大きな映画の舞台でスポットライトを浴びるようになる。
これを一人の映画作家のロールモデル、そして映画を巡る撮る欲望と見る欲望の出会いとすれ違いと再会のドラマとして語ろうとしたのが、私がインタビュアーをつとめた「黒沢清の映画術」という本です。

黒沢清というロールモデルは、ある種の人たちには現在も十分有効だと思っています。ただし、今では黒沢監督の不遇時代を支えた媒体はほぼ存在していないか機能していないのも事実。
そうした中、フランスのシネマテークで大がかりなレトロスペクティヴが開かれる日本出身の映画作家というのが若い人たちにとって手の届く存在には見えないかも知れないという危惧はあります。

映画とその歴史への愛を語り続け、ジャンル映画だろうがVシネだろうがテレビだろうが撮り続けながら、やがて世界的に認められ批評的にも成功した映画作家になるというのは、実に魅力的なロールモデルである筈なのですが、「撮る」部分でそれが今の若い人たちの現実から乖離する部分があるのであれば、そこはやはりアップデートする必要があるだろうと思います。

一方、自主映画などを撮っている今の若い人たちにとって、もっとアクセス容易ないくつかのロールモデルというのがあると思います。名前は挙げませんが。これが映画を撮るシーンにある種の活況をもたらしていることは間違いなくて、それは勿論良いことだと私は思います。
と同時に、そこにはまだまだ多くの問題があると思う。黒沢モデルのバージョン1.0が『スイートホーム』で一度現実に破れ、『CURE』を経由したバージョン2.0を必要としたとするならば、現在シーンにあるロールモデルにもまた変容ないし修正のようなものがどこかで必要になるでしょう。

その問題というのは、先日も書きましたけど、端的に言って、撮る欲望と見る欲望、語る欲望が乖離していることも一つです。
見る欲望にとって、映画というのは大きいものである必要がある。
これは映画祭の審査員の視線、あるいは海外の批評家や観客の視線でもあります。
何か大きいものを感じたい。
わたしたちの現在の気分をよく反映したものは、そのコミュニティの内部では説明なしに流通しますし、大きな力も持つ。でも、それは共通の言葉、つまり日本語のニュアンスと気分に守られたその共同体の外では通用しないのです。
単にある程度良くできた作品であれば、それは共同体のボーダーをなかなか超えない。
だって、他の共同体にはまたそこなりの、別のある程度良くできた作品が必ずあるわけですから。

つまり、「単に良くできた」という以上の何かをわたしたちは映画に感じたいわけですよね。これが見る欲望にとってはとても大きいし、だからこそ語る欲望がそこに寄り添う。
「単に良くできた」という以上の何か、大きさを感じさせる何かを生むにはどうすれば良いか。これが現在の大きな課題だと思いますし、そこにこそ、映画を見る欲望、語る欲望、撮る欲望をつなぐためのヒントが隠されている。そしてそれは、具体的な何かであると私は思う。

そして、この具体的な何かは、映画を撮る人間だけではなく、見る人間、語る人間も一緒になって作る必要がある。それぞれにロールモデルが必要だし、彼ら彼女らが活躍するための場所も成立させなければならない。

映画を撮る欲望、見る欲望、語る欲望のそれぞれをどうやって連携させるか、大きさを生むか、自分たちの映画と感性と言葉を「売る」か、そうしたビジョンを明らかにし、そのための具体的な道筋を考察し広く議論を喚起していくこと。そして場所を作るための具体的な手段を模索すること。こうしたあたりから手を付けていく必要があるかな、と現時点では思っていますし、具体的に動き始めています。

場所を作るってのは、ただ、新たな何かを別に生み出す必要はないかも知れません。今だってツイッターがあるしブログがあるし。ただ、そうしたものをどこかでつないで全体としてシーンに見えるような仕掛けは必要かも知れない。何らかのプラットフォームでも良いですし、共通のOSを構築することでも良いのかもしれない。メディア的な仕掛けが有効かも知れません。
ま、そのあたり上手い人はいっぱいいる筈だけど。

アイディアや具体的な手段を持っておられる方がいらっしゃいましたら、是非ご一報を。

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