2010年代に日本で映画を思考するゼロ地点?

ここしばらく、80年代以降の日本における映画愛好のある種の傾向みたいなものについて考えることが多い。もちろん映画愛好と言っても現在では極めて多様化しているが、洋画と邦画、古典と新作、アメリカとヨーロッパという対立項をゼロ地点とした展開の中から見えてくるものはあると思う。

とりわけ、日本のシネフィル的な趣味の傾向というものはかなり独特で、その中にいるとそれが当然の判断であるようにも見えるものだが、例えばフランスやアメリカで年間ベストテンに入るような作品でも、日本ではこっぴどく酷評されることがあり、しかもそこにはある種の一貫性がある。

これを特定の映画批評家の趣味とその影響力に還元する言説もしばしば見受けられるが、私はそれは違うと思う。そこに何らかのドメスティックな文化的・社会的理由があるからこそ、これだけ広範な伝播力を持ち、当然の前提として美的・趣味的判断の無意識的な根拠とされるのではないだろうか。

では、それは日本の独自性として顕揚されるべきものなのか。私はこれもまた違うと思う。と言うのは、私はそこに何か得体の知れない気持ち悪さを常に感じてきたからだ。この気持ちの悪さの理由は何だろう。それはたぶん、現状肯定と現状追認の心性に根ざした、戦略性の欠如ではないかと思う。

以前から使ってきた言葉だが、ではこの「戦略性」とは何か。例えば、ヨーロッパやアメリカの映画批評には明らかに戦略性がある。簡単に言うと、アメリカでは娯楽であり文化芸術でもあるアメリカ映画を顕揚=維持し、かつ批判=破壊することを通じて常に回帰する新しさとして繁栄させようとしている。

一方、ヨーロッパや各国映画祭サーキットを中心とした作家主義的な言説とそのマーケットは、こうしたアメリカ中心主義(帝国主義)と対抗ないしそれを包含し得る文化的・芸術的磁場を形成することに大きな戦略的目的があるだろう。

そしてそれらは、ヨーロッパ対アメリカの文化的覇権主義の闘争としてのみ語られるものではなく、もっと根源的な衝動をその基部に据えたものである気がする。その衝動を一言で言うと、つまり、映画を見ることは既に撮ることでもあるという、ヌーヴェル・ヴァーグの一つのテーゼに行き着くように思う。

この言葉が意味するのは、映画批評家は最終的に自分で監督しなければいけないといったものではなく(別に撮っても構わないが)、見ることと撮ることが渾然一体として自分たちの周囲に映画的な環境を立ち上げよう、成立させようという希望であり願望であり欲望にあるのではないか。

実際、ヨーロッパでもアメリカでも、映画を見ること・語ることは自分たち、ないし自分の周囲の人たちが映画を撮る行為にダイレクトに関わりを持っている。ある作品を肯定的・批判的に論述することは、「自分たちの映画」にどのような意味を持つか真剣に考えている。それこそが「戦略的」という意味だ。

だから、アメリカでもフランスでも、ある種の映画を顕揚・批判する言葉の背後には、純粋に美的・芸術的・理論的判断とばかりは言えない、様々な戦略や配慮が潜んでいる。映画史という大文字の話を語っているときでさえそうだと思う。

しかし、一方で日本はそれらと無縁であり、その事実を通じてもっと純粋に映画と向き合っているかというと、決してそうではない。そこでは「戦略性の欠如」という名の現状肯定的気分が支配しているのではないか、というのが先程書いたことだ。

映画を生きるとは、映画を見ることであり、映画を撮ることであり、それはつまり映画的な環境を自分の周りに成立させ、維持し、破壊し、再生することの全体を意味しているのではないか。そして、それを可能にする試みと努力こそが、ここで言う戦略的なものなのだ。

対して、日本ではこうしたトータルなありようとしての映画的環境=映画を生きることをどこかでシニカルに放棄してきたように思う。日本はアメリカでもヨーロッパでもないからだ。これはきわめて重要な前提である。

あるいは、映画を見ること・撮ることの総体を成立させようとするプロセスの中で、取りあえず80年代以降の消費文化的な可能性として、見ること・受容すること・消費することにのみ特化した文化を形成してきたのかもしれない。

だが、その是非はともあれ、結果として消費者でありガラパゴスでマージナルな存在でしかない自分たちの現状を追認するシニカルな気分をのみ現在に至るまで蔓延させてきたきたように思う。これは閉塞的で自己完結的な状況であり、次のステップを生み出し得ず、経済的繁栄を失えば後は衰退するしかない。

典型的だといつも思うのは、日本の映画愛好において、ハリウッドのトータルに完成された作品と、ヨーロッパ的な徹底した作家主義的作品の両極が手放しに顕揚されるのに対して、その内部における「もがき」のような「生々しさ」がきわめて侮蔑的に評されることの多さである。

たとえば、「作家的気取りがある」とみなされるアメリカ映画は必要以上に酷評されるし、アメリカ的活力を取り込もうとするヨーロッパ映画も軽んじられる。しかし、その「生々しさ」こそ彼らの戦略性が極めて如実に露呈する現場であるし、私たちが今最も学ぶべき部分なのではないか。

映画を作る存在でもある自分たちの足下を括弧に括り、最も遠い対象を静的なものとして理想化して崇める(=自分たちの現状を安全地帯から追認する)のではなく、彼らもまた動的に揺らぎ、もがいている存在であり、その戦略性があられもなく露呈する瞬間さえ存在することを見届けること。

そして、その「生々しさ」にこそ学ぶこと。自らを守ってきた地理的・文化的・趣味的な安全地帯から踏み出して、アメリカでもヨーロッパでもない自分たちが映画を手にするための戦略性をそこから築き上げること。こうしたことこそが、今最も求められていることなのではないかと私は思う。

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追加(2012.04.15)

上のタイトルですが、ゼロ地点と敢えて言うのは、そこから現状に至るには何重にも折り返しがあるからですね。とりわけ見る立場に於いての。でも、そのダイナミズムを考察しないと、全てがただ「自然」や不可抗力として受け止められたり、視線の乱反射に幻惑される。

とりわけ見る立場は見ることそれ自体を目的として、さまざまに価値の転倒や変異、ズレを生じさせていくものであって、だからこそ価値はひたすら多様化していくわけですが、と同時にそこに奇妙な閉塞感が生まれる理由ともなり、全ての闘争が世界内戦となってしまう一つの理由ともなっている。

見る欲望は、常に新しいもの・新鮮なものを見ようとして、きわめて多様な価値をそこに生み出してきたわけですが、しかしそうした多様性自体が既視感に覆われるという奇妙な逆説があるわけですね。それは、見る立場を見る=作る立場から切り離した地点に由来する、というのが一つのポイント。

80年代あたりには鏡の比喩や視線のマニエリスムがポジティブなイメージに於いて語られたものですが、21世紀に入って私たちは、ふと気づけば鏡に四方を取り囲まれて脂汗を流し続けるガマガエルのような場所に追い込まれた気がするのです。

鏡に四方を囲まれた場所から出るにはどうすればいいか。これこそが現在の私たちの大きな課題の一つだと考えます。そしてそれは本来簡単なことであったはずです。上に書いた内容は、そのための一つの実践的マニュアルのようなものです。

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