『最強のふたり』と『アーティスト』

そう言えば、某所に行ったとき日本のシネフィル系の人で『最強のふたり』褒めてたの私くらいしかいなかったって聞かされて、いやそうですよ、グランプリってのはさすがにどうかと思いましたが(笑)、あれは決して悪くない映画だし、映画ってのは複合的な現象なんだから総体として見なきゃ。

アメリカみたくハリウッドと独立系の複雑な関係とパイの大きさと人の多さがあったり、フランスみたく様々な派閥が存在しているのであればまだしも、日本なんて人も少ないし同調圧力も強いしカルト化しやすい風土だし、すぐに一方向に走っちゃって全体としての力を失ってしまいがち。

映画にはいろんな価値があるべきで、『最強のふたり』みたいな映画が一人勝ちって状況は絶対に避けるべきなんだけど、でもあれは勝ちそうだって流れは見えてなきゃ駄目だし、その上で何故自分はたとえばセドリック・カーンの映画を支持するかって意見を明確に提示する必要があると思う。

単に「反抗のための反抗」になっちゃ駄目だと思うんですよね。で、そうなりがちなんだ、日本の映画ファンは。「なぜそんなに偉そうなんですか?」と聞かれて「偉いからです」と答えたのは蓮實さんで、これはユーモアあって面白いですよね。メジャーに対抗して別の価値を存在させる目的も見える。

でも、そうした闘争の結果生まれた価値の中で生きていると、何故自分がそれでも反抗するかって理由が見えなくなる。それを補填するために人はやがて超越的なものを持ち出してくるわけで、つまり自分たちは映画に選ばれた特別な存在であると思い始める。

内的にも外的にもそれを主張し続けないとその場に居続けることができなくなる。結果、日本では映画に選ばれた特別な存在で自分たちだけが偉いと考える排他的映画ファンが生まれがちで、彼らは勿論『最強のふたり』も『アーティスト』も認めないしそうした作品が生まれる風土を理解できない。

でも、そういう閉鎖的で自分たちだけが正しいと思っている映画ファンに向き合ってたら、商業的に成立しなきゃいけない映画はやっていけないのが目に見えてる訳で、だから日本で映画撮ろうとする人が映画ファンにそっぽ向くのは仕方ないって流れになっちゃうでしょ。当然の話だ。

自分たちが作り上げた神は自分たちを間違っているとは絶対言わないもんね。カルト化・先鋭化して社会的にいずれ爆発するコース。ま、そこまで行かないにしても、この道は絶対に避けたい。

先日のカンヌ映画祭セレクションが発表されたときも言いましたが、フランスはたぶん今ハーヴェイ・ワインスタインが羨ましくて仕方ないんだと思う。二十代で弟らとミラマックスを立ち上げてアート系作品、作家的作品、海外の映画をアメリカ国内で定着させ、商業的にも大成功した。

ま、札束で人を叩くような人でもありますが、ミラマックス退社して作ったワインスタイン・カンパニーが再び大成功して、『アーティスト』(の主演女優の司会)と『ロウレス』『キリング・ゼム・ソフトリー』で今回のカンヌをほぼ席巻してるもんな。独立系映画会社として信じ難い成功。

『アーティスト』のアカデミー作品賞獲得に多大な貢献をしてくれてありがとうって面も大きいと思いますね。間に合わなかった『ザ・マスター』や『ジャンゴ・アンチェインド』への目配せでもあるし。

ハーヴェイ・ワインスタインみたいな人がガツンといた上で、そのラインのアート系作品、さらにその風潮に逆らう別の映画も作られるって状況じゃないと全体として映画はやっていけないってのが国際的な流れだと思います。で、日本ではこの全てを一人何役もこなしてカヴァーしないといけない(笑)

「映画のために」なんて言葉は誰にでも口にできるんだけど、それが本当に映画のためになるのか、この国で、今この時代で、と言う問題は常にセルフチェックする必要あると思いますね。自分が作り出した、自分だけは否定しない神=映画を崇めてもそれが本当に映画のためになるのか?

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