「リュミエール」13号と愛について

人の趣味は千差万別です。たとえば情報が雑誌や新聞に限られていた時代は、ここにある種の物理的制約があり、その本質的にどうしようもない多様性が表面化しなかった。つまり、マスメディアに載った識者の意見が特別なものとして保護されてきたわけです。

ところが、インターネット時代はこれを根底から変えてしまった。誰もが気軽に発信できるとき、その一つ一つにはかつてのような重みは全くなくなる。こうした状況下にあって、どのように特別な存在感や言説の軽重が存在しうるか?これは言説に関わるものにとってきわめてクリティカルな問題です。

知性や議論に対するある種の敬意がある場所ではまだ良いでしょう。しかし、そうした場所にしたって、この本質的な多様性の問題は深刻です。問題は誰かが何か言ったという絶対的な事実性ではなく、こういう意見があるというマッピングに置き換えられて行ってしまうのですから。

自分の好きな映画を他人が好きだとは限らない。しかも、圧倒的な不毛さの感覚と共に、それらがすれ違ってしまうのが現代ってやつです。こうした状況下にあって、私たちはどうすべきか?どうやって自分の好きなものを押し広げていけばいいか?趣味を共有しない他人に見てもらえるのか?

こうした言説の全てが相対化され、重みを失い、歴史の抑圧が機能せず、教養の広い共有も無効であるとき、一体わたしたちはどうすべきなのだろうか?

これはきわめて重要かつ大きな問題であり、これが正しいとすぐに答えを書くことは到底不可能です。しかし、少なくとも何が駄目かは分かる。そして、いずれにせよ私たちは私たちの存在するこの時代この場所から出発するしかないことも分かる。

自分が好きなものを相手にも好きになってもらおうと思うとき、私たちはまず自らの熱意を示すしかないと思います。しかし、相手もまた同様の熱意を持って自分が全く好きになれない作品を薦めてきたとき、私たちはそれを下らない趣味だと言って馬鹿にできるのか?その優劣を担保するものは何?

たとえば、ヒッチコックやホークスは、当時単なる職人監督だとして重要視されていなかったにも関わらず、トリュフォーらは彼らこそ真の作家だとして擁護した。ここには価値の転倒があります。しかし、現代では同種の価値の転倒が無数にあるわけです。

私も見たことがないホラー映画や様々なものを取り上げ、これらこそが最も面白いという人たちはたくさんいます。まず、その無数にあり得る趣味の多様さの全てにはとうてい対応できない。次に、対応したところで勝ち負けが決まるわけではない。趣味の違いとして片付けるしかない場合が殆ど。

こうした本質的な多様性の状況は、一見良いことのようにも見えますし、実際良い部分も多いですが、しかし同時に全てが一斉に駄目になってしまう危険性もそこにはある。映画の場合、その可能性は極めて高い。経済的インフラに依存する部分が大きいからです。

左翼は政府の批判だけしておればそれでよろしい、ってのは、なんだかんだで国が上手く機能しているときだけだと私は思います。同様に、映画を支える様々なものの底が抜けようとしているとき、それを愛する私たちもまた変わらなくてはいけないのではないか?

近代化の中で、かつて手作業で作られていたものの多くが工業製品に置き換えられていきました。そしてそれらは味気ない大量生産品だとして蔑まれまることもありました。ところが、そうやって作られた過去の工業製品に現代の私たちは「魂」を感じて昔は良かったと言ったりもするのです(笑)。

自分が愛するもの、歴史、教養、これら全てを捨てるべきと言う意味ではありません。しかし、それらを他人にも愛してもらうためのルールや作法全てが変化したと思うのです。私たちに必要なのは創意工夫です。そして同時に、これらを自分の身元保証として使うことは、たぶんもうできない。

まあ、自分でもひねくれ者だなあと思わないでもないです(笑)。でも同時に、自分があんまり好きじゃない映画を本気で擁護してるアメリカとかの論評読むと、なるほどそういう愛もあるかとなびいて肩入れし始める自分がいるのも本当なんですよね~

蓮實さん山田さんが編集した「季刊リュミエール」でも、ウェイン・ワンの『スラムダンス』を表紙にした13号に一番インパクト受けたし。それは、彼がさほど重要な映画作家とまでは成長しなかった現在から振り返ってもそう。あれはとても勇気ある決断だったと思う。そしてそこに愛を感じる。

映画に対する愛というものを、また別な形で教わった気がします。そしてそれはとても重要なものであり、あの当時も、そして現在に至るまで十分に議論されてこなかったものだと思っています。

「リュミエール」全巻持ってる人は、是非表紙を上にして床に並べてみてよ。13巻だけ異様に浮くから(笑)。でも、こういう感性を育んでくれたのもまた映画だって気がするんだよね。

自分の一部のように近いと思っていたものと自分との間に絶対的な距離が介在し、でもその事実を時には笑いと共に享受することができるような瞬間であり感性。こうしたものも映画は私たちに教えてくれた筈。なのに、何故かそれだけは忘れさせる機構が存在する。それこそが問題だと思う。

ツイッターやフェイスブックで繋がる若い人たちには想像もできないかも知れないけど、かつては「特別な共同体」ってのが濃厚に存在したんですね。そこでは「分かってる」人たちだけが集い、誰かをパーティに呼ぶ呼ばない、メンバーとして認知するしないが極めて重要な意味を持つ。

本当に分かってる者だけが集うから他者を排除するのか、それともそうした領域化と排除のプロセスこそが自分たちが「分かってる」少数者だというプライドを作り上げるのか。曖昧な部分が大きいとは思いますが、仮に後者だとしてもこうした共同体に全く意味がないとは私は思いません。

こうしたエリート集団が社会的に機能しある種の生産性を高めることに寄与した時代とケースが間違いなく存在したからです。

ただし、今は全くそうした時代ではありません。誰かのパーティに呼ばれたいと考え言動に気をつけ従順に振る舞い修練を積もうなんて考える人はもはやいませんから。そして、これはとっても良いことだと私は個人的に思います。自意識過剰な集団の陰湿さには嫌な思い出しかありませんから。

一方、ツイッターやフェイスブックでの繋がりはこうした過剰な自意識から解放されているとは言え、逆に過剰に無縁なものとなりすぎている側面もある気がします。そこでは、一貫した価値観や基準といったものがまず醸成されない。

両者がお互いに認め合い利用し合い、生産的関係を結ぶことができればと思うのですが、事態はまず逆になりますね。昨日も書きましたが、お互い変わらなければこれはどうしようもない。そして、今ここで自分を変えることは一つの贈与であり愛となる筈なのです。誰が今愛を示すことができるか?私たちが今問われているのは、そうしたことなのではないでしょうか。

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