メモ20130109

2013.01.07
大会社の人間がことあるごとに下請け脅すのは、殆ど癖のようなもので自覚もないんだけど、同じ事がネットの人間にも言えて、ちょっとした意見の違いや立場の相違から相手の人格まで否定をしなくちゃ気が済まなくて、しかも殆ど癖のようなものだから、その自分の醜悪さに全く自覚がない。

何かの価値体系を盲目的に信じちゃってるあいつらはバカだ(だからオレたちが正しい)ってお馴染みの話にはもう心の底からうんざりしかしない。後者の正当性・優位性はポジティブに定義されたものでないことはもちろんだけど、問題はそんなことじゃなくて、

すべての価値が相対化されたのちに、それでも孤独に何かを信じることにしか意味はないし、それだけが人にポジティブな力を与えると私は思う。寄ってたかって何かを壊す負の連帯は、さらなる負への傾斜しか生まないし、そこで次に貶められるのは自分たち。

2013.01.08
日本人って昔から敵対するグループをその弱点や「トンデモ」だけ抜き出してこき下ろすの大好きだけど、これは「批判」ではない。さらに最近ではそれが相手のためにならないのだから敢えて言うみたく、見せかけの思い遣りレトリックにくるむのが大流行ですが、これは不快以外の何物でもない。

2013.01.09
昨日、私はある「不快さ」について書きました。ただ、ここで注意を喚起しておきたいのは、「~は不快である」という言い方は、典型的に権力者の物言いである、ということです。ある価値の体系や趣味の集団に属する者が、そのヒエラルキーに基づく非明示的な抑圧と排除の仕組みを論理的説明ではなく感性の共有とその束縛において機能させ、相手を支配のシステムに組み込もうとするのがこうした言説に込められた真の意図であると言うべきなのです。

社長が社員に向かって、君の顔はどうにも気に食わんとか口にする、あれですね。社員の方は、一体自分の何が悪いだろうとあれこれ悩まざるを得なくなるわけですから。

しかし、その権力と支配の言葉は、同時に権力に対する抵抗の言葉としても使うことができる。私が昨日140字の中で意図したのは、こうした言語の運用です。権力が生み出した典型的な支配の道具を、権力に対する武器として逆説的に使用すること。

だから、そこで重要になるのは相手と自分の立場の厳密な規定です。
私は、現在ドミナントであり、多くの人々が無意識的に機能させ、機能させることで依存し、その内部に取り込まれているあるレトリックの罠について、言説者の品格を問うという反時代的で孤独な立場からの異議申し立てとしてあの「不快さ」の言葉を使いました。
このようにあらかじめ厳密に立場を規定しておく前提部分の注意深さにこそ、この運用法の最も肝心な部分があると私は考えます。

そのプロセス抜きでは、それは単に「別の支配と抑圧の言語」そのものとなってしまうからです。

よく、蓮実重彦がこれこれの発言をした時と、その同じ言葉をエピゴーネンのような人たちが後になって使う時では意味が全く違うと言われたりしますが、それもまた同じ理由による場合が多いです。
あるいは蓮実重彦自身も、ある場合にはそうした批判を受けるべきかも知れませんが、それはまあ今は良いでしょう。

ともあれ、言語で重要なのは、その運用法であると私は思います。自分はどの立場で何に対してどういうポジションからどういう言葉を使っているか。それは明示的であるかそうでないか。
そして、こうした前提部分にこそ、言説者の品格が表れると私は思います。

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