『アルプス』(2011)ヨルゴス・ランティモス

alpsタイトルから想像されるような山岳映画とかではなくて、『籠の中の乙女』のランティモスが前作に続いて撮ったある種の家族映画。猟奇映画みたいな誤解のされ方で前作は日本公開されましたが、こっちはその手の要素が薄いので無理かもね。
私はでも、前作は嫌いでしたが『アルプス』は、うーん、どうだろう。好きとは言えないけど、前作よりは好感を持つ部分があった。

前から言ってますが、日本では何でもかんでも「様々な趣味やスタイル」として並列に処理されて、それはそのまま日本で作られる作品に多くの場合内面化されてしまいますが、ランティモスの作品なんかは明らかに文脈があって、その前提と理解の元で作品が見られていることは踏まえておくべき。

で、それは簡単に言うと、アメリカに代表されるポップカルチャーの「みだらな魅力」に憧れながら、ヨーロッパ的な父権社会や家族の価値や、あるいは形式主義のようなものに属し、しかしそれらが崩壊しつつある中で、暴力に晒されつつ自らのスタイルを生きる、といったもの。

世の中面白ければ全て良いじゃんってみんなが言う中で、面白いだけのものが良いって主張してるわけじゃないのですね。(それって単なる自己肯定だもんね。)

だからこの作品自体、ヨーロッパ映画や文化のある種の価値観やスタイル、美的センスというものをよく吸収しつつ、それらとアメリカンな奔放さとの緊張関係を作り出していると言って良いでしょう。その部分では、前作も含め成功していると思う。

で、同種の側面はたとえばジョアン・ペドロ・ロドリゲスにもあるわけですが、しかし、ロドリゲスの場合、彼自身が言うように、登場人物や物語やそれらが背景としているものに対して、作者が上から目線で描くことが決してない。
だからこそ、映画の登場人物も、それを撮る監督も、それを見る私たち観客も、全て同じ目線から映画ないし現在の世界を生きることになるわけです。

ランティモスの場合、それに対して、やはり登場人物たちがしばしば役割を演じさせられる機械に見えることが否めない。それは勿論ある部分は意図的な訳ですが、しかし、それを演じさせる作者の超越的視点がやはりどこかで垣間見えてしまう。

それは結局、形式主義の崩壊を描きつつ、センスの良い自分=映画の形式を生き延びさせてしまうようなシニシズムだと思うし、前作よりその側面は薄れている(特に終盤)ように思いますが、やはり『アルプス』にも同じ臭いがあると思う。

でもまあ、形式主義とその崩壊とポップカルチャーへの憧れのような緊張関係を作品のダイナミズムとして持つことができることには素直に感嘆しますけどね。だって、全てがグズグズの馴れ合い共感主義とかよりか全然面白いもん。

『アルプス』予告編
http://www.youtube.com/watch?v=Hj2lR6Yp-gY

「全てがグズグズの馴れ合い共感主義」が問題なのは、それが時に(全く矛盾なく)すさまじい排他主義にもつながるって部分にもあって…

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