映画と「驚くべきもの」について

よく、本当らしい演技を売りにした映画を「映画の倫理」として許せないというシネフィルがいますが、私の場合、単純に作品によると思ってるんですよね。つまり、単に本当らしさを売りにしただけの作品であるのか、それともそれ自体本当である様々な瞬間や情熱、楽しさ、緊張感のようなものを映画としてカメラの前に発見しとらえているか。
これは作品と向き合って丹念に言葉にしていくしかないものであって、原理的な言葉をこねくりまわしてみてもそのルールを決めることはできないと思うし、できると断じるのは見る側とか批評家とかの作品に対する勝手な扱いであり横暴さだとも思うけど、ただまあ、個々の作品に対して、実際に作品を見た人間に許される言葉であり振る舞いであるとは思う。それを普遍的なルールとか倫理のような言葉で高く掲げ始めた瞬間、たちまち胡散臭くなるだけであって。

ただ、ちょっと似た部分に触れる作品として、もう公開されたから書くけど、最近ではジャック・オーディアールの『君と歩く世界』はちょっと正視しがたい瞬間が幾つかあった。それは醜い、あるいは衝撃的だから、というのではなくて、ほら、これは衝撃的瞬間でしょ、と映画がこちらにひけらかそうとするものが、まさに「衝撃的であろうとするもの」として加工され後から作られたものである、という点において。それは映画として破廉恥な態度だと思ったんですね。

もちろん、ハリウッド映画でもCG使って大災害とか大事故描いたりしますが、それはストーリーの流れの中の歯車のようなものであって、映画自体が、ほら、これは衝撃的でしょと見せびらかしたりはあまりしない。あるいは、見せびらかそうとするのは駄目なアメリカ映画だと思う。

ここに、こういう人がいる、こういう物がある、これに驚け!と映画が私たちに告げる瞬間、その人や物というのは後から作られたものじゃいけないと思うんですよね。少なくともその瞬間それはある意味で本当にあったことだというのが映画に対するある種の信頼を担保してきたし、あるいは、映画を見る感性を育んできたという歴史的な背景がそこにはあるから。
あるいは、そうした歴史的な立場に自分が与していると言っても良いでしょう。

これに驚け!と映画が私たちに告げて、その指の先に本当に驚くべきものがある場合、映画は私たちと一緒に驚いている。しかし、それが後から作られた物である場合、映画は私たちより上から目線で上の立場から、私たちの感動を組織し作り出そうとしている。これは破廉恥なことだと思うのです。

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