映画:プレモダン、モダン、ポストモダン

よく言われるように、日本ではプレモダンからモダンを飛ばしてポストモダンになった。正確には違うけど、でもポストモダンのプレモダンに対する親和性の高さ、すなわち批判力の欠如、そしてモダンの日本における嫌われっぷりをよく表してる。そしてこれって哲学とか評論だけの話じゃない。

プレモダンとポストモダン連合によるモダンの抑圧は、すごく現実的な力学として露呈していて、それはとりわけ映画の世界なんかで顕著であり、ますます大きな問題になってきてる。これを一度キチンと具体的に検証する必要があると強く感じる。

ポストモダンはモダンへの批判ありきなんだけど、日本の映画界みたいにこれほどモダンが弱体化してしまうと、それは単にプレモダンからの憎悪と一体化して、様々な教育の場や批評をなし崩しに崩壊させるのに手を貸すだけになっちゃうんだよね。で、大抵の場合それに無自覚。

ベタベタに整理してやると、映画雑誌とか映画祭ってのはモダンの場で、大学による映画教育も基本はそう。シネクラブもモダン。最近の映画学校は割とポストモダン。映画会社とか興業の世界はプレモダン。蓮實さんはモダンな仕事もポストモダンな言説も両方あった。

蓮實さん、黒沢さん的な映画の語りはポストモダンだけど、プレモダンなものとものすごく親和性高い。作家主義はモダン。シネフィルの隠喩的な映画語りもモダン。で、プレモダンによるモダンへの憎悪ってのは、例えばどういう形で現れるかというと、今だと映画祭の例がたぶん分かりやすい。

封切り前の映画を通常より安く上映する映画祭は、文化や芸術、映画の普及、そして教育の場としてあるからこそ成立する。これがモダン。それに対して、うちの商売を邪魔しやがって!という興行界の発想がプレモダン。映画祭?芸術とか気取りやがって!というのがポストモダン=プレモダン。

先述したように、ポストモダンによるバックアップを受けたプレモダンな力は、ますます日本の映画界における一元的価値(お金)として全てを支配しようとする。東京国際映画祭の料金もずっと映画興行界から槍玉に挙げられているようです。通常の商売より先に安く上映するのは許せないって話。

映画祭の料金が値上げされるとしたら、それはだからそういう理由です。文化や芸術、教育という名目が機能しなくなるというのはこうした具体的な形をともなって現れるんですね。こうした状況で闘うべき相手はどこにいるか?映画祭?芸術とか気取りやがって!とか言ってる場合か?

プレモダンってのはつまりヤンキー。ポストモダンってのはヤンキー受けする知識人。モダンってのは小難しい知識人で勿論ヤンキーには嫌われる。日本の映画界で生きやすいのは勿論ポストモダン。だから、たいていの人はモダンへの批判としてではなく何だかんだ都合の良い側としてそっち選ぶ。

もちろん、ある種のモダニストが鼻につくってのもすごく分かるんだけどさ。でもそこでやるべきなのは、ヤンキーと結託することじゃなくて、鼻につかないモダンを模索することじゃないかと思うんだよ。

映画祭とか映画批評みたいなモダンは、本来あるべき映画の形を壊したってのがモダンに対するもう少し高度な批判になる。これはある部分事実だけど、でもそこで「本来あるべき映画」って何だろう?って思う。それはつまり映画を強度においてのみ受け止めるってことだけど、大抵は嘘だよね。

もっと深い部分にある様々な物語がそこで機能し始めるってのが実際な訳で、それがニューエイジ的な物語とかカルトとか癒やしなんかと結びついたりする。そしてそこに批判力はない。全てがベタッとして「本来あるべき」という物語の中消費され、お金という一元的価値によって管理される。

こんなものが私たちの「本来あるべき」姿なの?私にはそう思えない。それぞれ問題や弊害を持った様々な力が互いに拮抗しつつ共存しているのが事実として私たちの現在であり、そのバランスが重要なのだと思う。だから、それが壊れているなら、それを回復すべく自ら移動するものこそが批評だ。

80年代のポストモダン映画批評の中で、あそこに丸があるとか言ってたのが、やがて木がある風があるになり、気づけば四大元素があると言ってた。それってニューエイジだし癒やしだよね。映画をその強度において受け止めるってのは、実際そういう大きな物語を招致してしまうものなんですよ。

大きな物語に回収されないよう走り続けるってのは、好況期の幻想としては機能すると思うけど、今みたいな不況の時代にはあまりに社会の現実と無縁なまま口にされる御為ごかしにしか見えないんだよな。実際、それが資本のスピードを超えることは実に実に実に稀なケースでしかない。

ま、もし東京国際映画祭の料金が値上げされることにでもなったら、またこの一連のツイートを読み返してみて下さいよ。

ポストモダンとプレモダン=ヤンキーの親和性の高さと妥協点の見出し方については、たぶん『スプリング・ブレイカーズ』あたりが一番分かりやすい例になるように思う。

そしてみんなヤンキーになった

日本におけるアメリカ娯楽映画監督崇拝とかジャンル映画論、ロジャー・コーマンみたいな人の持ち上げ方って、ビッグダディだと思う。もちろん、悪いって言ってるわけじゃないけどね。

キネ旬はおおむねプレモダン、映芸はモダン、秘宝はポストモダン、爆音もポストモダン。『リヴァイアサン』はポストモダン、それに対するカイエの批判はモダン。この対立では私は前者を支持。だからモダン絶対肯定じゃない。状況を明晰に見るべき、そして必要を満たすモダンを作るべきって言ってる。

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