『自分に見合った顔』と私たちの中のシモンイス

昨日のトークでお話ししましたが、ミゲル・ゴメス『自分に見合った顔』後半は、私たちの中にある様々な子供っぽさの分析です。私たちの中にはたくさんの子供がいる。ニコラウもいればハリーもグロスもコピもいる。トラバソスもテキサスもシモンイスもいる。

そして、子供であるとは子供であるためのゲームを永遠に続けることです。私たちはみんなそうした子供としてかつて生きていた。ところが、それが変質する。

同じゲームが、共同体を維持するためのゲーム、ヒエラルキーを生みだし抑圧し排除する陰湿なゲームへと変質する。子供であり続けた子供は、あるとき、悪しき子供へとどこかで変質した自分と向き合うことになるのです。それは、シモンイス(権力欲)とハリー(悪意)の世界です。

悪しき子供に変質してしまった子供がどのように自らの中のシモンイスと向き合うか。どのように乗り越えるか。それこそがミゲル・ゴメスが自身の問題として直面した「30才の危機」であり『自分に見合った顔』という作品後半の大きな主題だと私は思います。

悪しき子供であることをやめるには、今度こそ本当に子供をやめるしかありません。大人になるのです。子供であり続けるためのゲームの場所から出ていくしかないのです。そしてそれは、そのまま多くの問題へと引き継ぐことができると思います。これは私たち自身の問題であるからです。

たとえば、シネフィル問題なんかもその一つでしょう。映画を愛し、映画をたくさん見る人という程度の意味だったはずのシネフィルという存在が、何故か陰湿で排除と抑圧に満ち、上から目線で他人を馬鹿にする言葉ばかりが溢れた権力の空間へと変質してしまう。それがシネフィル問題。

これは、昔から全然変わりません。同じ構造の繰り返しなのです。なぜなら、私たちは誰もがシモンイスを心の中に飼っているから。そして、そのシモンイスと対決するのは自分自身でしかないから。だから、シネフィル批判をするのは昔からシネフィルです。それは健全な成長過程なのです。

そして、悪しき子供になってしまった私たちは、自分たちの中のシモンイスと決別できてはじめて一人の個として他人と向き合うことができる。社会に参画できる。逆に言えば、他人のシモンイスの面倒なんて見てられないのです。自分の自意識は自分で解決しなきゃいけない。他人に甘えちゃいけない。

ただ残念なことに、こうした話は何度繰り返しても、その度に以前の話や文脈を読んでいない新たなシモンイスが現れます。シモンイスと決別するにはその世界から出るしかない。これをネットで言えば、そういう人間とは付き合わない、一方的に絡まれるならブロックするしかない。単純な話です。

繰り返しますが、シモンイスと対決できるのは自分一人しかいない。それを他人に求めてくるのは単なる甘えか傲慢さか支配欲(お前ごときが!ってやつ/内への暴力性を他者に転嫁する甘え)でしかありません。その世界にとどまる限り、人は一人の個としてまだ大人の社会に参画していない。

なので、甘えた悪しき子供に「お前ごときが!」と暴言吐かれましても、私としては今日もまた粛々とブロックするだけです。いちいち引用もRTもする気ないです。どうぞ自分の好きな世界で生きていて下さい。自分の中のシモンイスは自分自身で処理してもらうしかないからです。

私は映画を愛してますし、映画を愛する人たちと共にいたいと思っています。ところが、映画を愛するある種の子供っぽい人たち(シネフィル)の抑圧と排除と侮蔑と悪意のパワーゲームに巻き込まれてしまうと、普通に映画を愛する人たちを逆に遠ざけてしまう。これ、みんな分かってるでしょ?

幸いなことに、映画を愛する沢山の人たち共に、奇妙で変わってるけどチャーミングでとっても素晴らしい映画を共に見て楽しむ機会に私は恵まれておりますので、私はそれで十分です。ありがとう。「お前ごときが!」と思われる方はどうぞ別の世界で生きてて下さいね。

You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can skip to the end and leave a response. Pinging is currently not allowed.

コメントをどうぞ

XHTML: You can use these tags: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>