歴史と感情生活

歴史を語るとき、それが物語として活性化されるための工夫を忘れてはいけないし、同時に、それが物語であることの自覚をうながす工夫も忘れてはいけない。
一方、個別の作品、人物、事件を語るとき、それが歴史の中に位置づけられることを常に配慮しなくてはいけないし、同時に、それがそうした体系づけを越えた、個別の圧倒的な存在であることにも驚かなくてはいけない。

…なんて風に書くと堅苦しいですけど、要するに、映画史であれ何であれ、歴史を視野の片隅にでも置いて語ろうとするとき、人は、きわめて柔軟な視点の移動と視野の変更を行う必要があるのであって、それはつまり、30年の時の流れをわずか90分のワンシーン・ワンショットで一気に収め尽くすような場面の演出から、そのまま、たとえばジョセフ・ロージーの『パリの灯は遠く』のような具体的な作品について、さまざまな視点の屈折と移動、クロース・アップやリバース・アングルを伴った複雑なモンタージュによって検証する試みへと接続されなくてはいけない。

歴史の大きな構造や物語と、個別の作品の魅力的な表情や細部とが、同じような具体性を持ちつつ、マクロとミクロ、30年と2時間、数億人と数人の幅を伴った映像と音響として立ち上がるのを促すこと。
しかも、それが今この時、この場所、この教室の中で起きている一つの事件であることを折に触れ再確認しながら、その自らの固有の存在と現在性を歴史と個別性にたいする共感と理解の側へと折り返していくこと。

…と、まあ、こんな感じでしょうか。
今回の授業でのわたしの試みを、ちょっと漢字多めの文章で書いてみると。

ただ、まあ、今も書いていてあらためて思いましたけど、漢字多めの文章って、それを書くこと自体に酔っちゃうんですよね。
ああ、オレ、いま難しいこと書いている、誰も知らない知識を披露している、誰も考えなかった複雑な形式を披露している、って(笑)。

そうした個人の勝手な喜びが、そのまま他人を巻き込んでいくような大きな何かへと結実していくようであれば、それはまあそれで意味のあることだともちろん思うのですけど、たいていの場合、個人の器の小ささを際だたせる以外の何ものでもなかったりしますからね~。
この辺、常に自戒して気をつけておかなくてはいけません。

と言うかね。
これ、若い頃には考えてもみなかったですが、と言うか、むしろ逆に考えていたようにも思いますけど、映画について語るのも、映画史について語るのも、それぞれさまざまなものが要求されるのは当然のことでありつつも、結局、それを一つの語り、言葉、映像と音響などとして具体化させていくときに重要になってくるものって、乱暴に言っちゃうと、その人の人間的な魅力じゃないかと思うようになってきました。

いや、だってね。
やっぱ、面白いことを言うのって、面白い人たちですよ。
魅力的な語りをできる人たちって、本人の人間性が魅力的なんだと思う。

自らの日常や具体的な生活の断片、他人との関わり、感情や人生の綾などといったものと、さまざまな思考や理念、細やかな情報や複雑な構造との間を自在に往還しつつ、それらに等しくさまざまな距離と角度を持って接することができるだけの柔軟さとフットワークの軽さを持った人でないと、映画のように複雑で多面的で自分の生き方や感情へとダイレクトに関わりを持つような対象とは、上手く関わることができないのではないかと思うんですよね。
で、それって、つまり一言で言うと人間性じゃないのかなあ、と。

ま、一言で言っちゃう必要もないんですけどね(笑)。
ただ、こういう乱暴な言い方も、警句としては意味があると思います。

内実を魅力的に抽象化できるのは、内実を伴った者にのみ許された特権である。
魅力ある人間は、必ずしも魅力的な批評家になれるわけではないが、魅力的な批評家は、魅力ある人間にしかなることができない。

警句って大事ですよ。
大事。

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