歴史は繰り返す、ってやつ

王政復古派の良いところの一つは、一見カルトに近いように見えて、まずそちらには行くことがないというのもあります。
周囲と比較しての動きの遅さや重さが、積極的な価値を生む場合もあることの一つの例ですね。

だいたい、カルト後の世界に備えて、自分の言説や映画に対する姿勢の有り様、情熱の保持の仕方を組織しておくことが、かつてポスト・バブルの不況時代(=高揚がカルトへと姿を変えていった時代)を生きてきたわたしたちにとって大きなテーマの一つであったわけですけど、それからなんだか一周回って、ごく小規模に同じテーマが今再び顕在化し、必要とされている側面があるようにも感じています。

トラック一周分逆行したかのような話を聞かされることが、たまにですけど、最近チラホラあったりして、これまでは、はあ?とか軽く受け流していたんですけど(だって、そうした問題を踏まえた上で、まさにそれ以降の課題に立ち向かうためにこそ、自分たちはものを考えたり発言したりしたわけですからねえ、要するに、今さら…って)、やっぱりそれじゃいけないのかもしれません。
こちらとしては、ごく小規模な歴史の(喜劇的)反復に過ぎなかったりするわけですけれども、彼らにとっては、きわめて生な、今まさに直面している現在進行形の課題であったりするのでしょうから。

カルトってのは、ごく単純に、自分たち以外を硬直した情熱の不在する世界、ないしは知識と無知として対立的に考える傾向があるわけですけど、そうじゃないんだと。
世の中には、実に多様な情熱の回路があり、歓びが流出するリズムがあり、高揚と理想が伝播していく形があるのだと。
それを、対立的にではなく、否定的にではなく、それ自体独立したポジティヴに存在する価値として明示していく必要があるのだと思いますね。

なぜ、シンプルにアンチカルトの道を取らないかというと、それはしばしば、もう一つのカルトへの野心へと結びつく結果にしかならないからです。
こうした理由で、わたしは、日本のある種の映画監督とか批評家の発言に、今も昔も、共感することができません。

因みに、これで言うと、草食系無頼派もまた、カルトと目の前のダブルバインド(それが何かは、ここでは敢えて語らない(笑))に逆らって情熱を保持するための一つの抵抗の形態であったりするわけですが、しかしそれは、あくまで個人的な抵抗にしか過ぎません。
個人的な抵抗の形が、世の中に一定量存在する必要はもちろんあるわけですけど、でも、そうしたかぎ括弧付きの留保の中にとどまり続けることは、私個人として、いつしか不満に思うようになったのです。

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