2通のメール

8月8日の記事に関して、※※※※さんという方から一通のメールをいただきました。
私からの返信も、先ほど既に出させていただいたのですが、※※さんからのメール文中に、該当のブログ記事を削除するか、もしくはこのメールをそのまま掲載して欲しいというリクエストがあったので、わたしの返信と共にそのまま無編集(※ブロッククォートする都合上、空白による改行のみ圧縮されてしまってます。ご了承下さい)で掲載させていただこうと思います。
また、私からの返信を読んでいただければ分かると思いますが、削除に関しては、今のところするつもりはありません。

以下、まずは※※さんからのメールで、そのあと、わたしからの返信が続きます。

はじめまして。

京都で映画の上映側の仕事に携わっております
※※※※と申します。

私はタル・ベーラの新作公開をもう何年も心待ちにしており、
7日の試写の後で何か書いている方がいらっしゃるのではと
気になって検索してたどりつきました。

試写というものは映画を公開するにあたり、
批評家やマスコミの方たちに事前にみていただいて
宣伝をするという目的でおこなうもので、
そのために試写室をかりてDM送って
もちろんみにきていただいた方にはタダでと、
手間とお金をかけて配給・宣伝会社が動くもので、
特にミニシアター系の宣伝予算が少ない作品にいたっては
それだけでも大変な負担になったりするものです。

つまり、試写の目的は映画の「宣伝」のため行われるものです

みる側は、そのことを周知の上で試写室へ行き、
「宣伝」に協力できる作品であれば文章を書いたりする。
これは自分には協力できない作品だと判断すれば協力しない、
というのが試写に行くもののあるべき姿勢ではないでしょうか

「協力しない」というのはブログに否定的な意見を書く、
ということではありません。
否定的な意見を書いて興行をつぶすのは
お金払ってみたときにして下さい。
そしてもう一つ、映画は人によって見方がまったく違うので、
(映画の仕事をやっていてこれはものすごく痛感します)
大寺さんにとってはつまらない映画でも、
私にとって彼の映画はまぎれもなくこれ以上の映画監督は
後にも先にも現れないと確信できる映画をみせてくれる
唯一の人であるわけで、まだ彼の映画を知らないけれども
それだけ好きになってくれる可能性のある人が
大寺さんのブログをみて結局出会うことはなかった
ということになってほしくないのです。

長文大変失礼いたしました。
返信不要ですが、できるならタル・ベーラに触れた文章は削除
していただきたいです。
もしくはこのメールをそのまま掲載していただいても結構です

本当はもっともっと賛否両論は当然だし
批判的な意見も必要だと思っているのですが、
特にこのような作品に至っては、ここでダメならもう次回作の
配給はなくなってしまうと思いメールさせていただきました。
かつて90年代にブームになったミニシアター、
そしてそんな映画館でかかっていたような映画も
このままでは東京以外の映画館ではみれなくなってしまう。
地方にはシネコンしか存在しなくなってしまうという危機感。
この状況はもはや目前です。

 2009.8.9 ※※※※

※※※※さま

こんばんは。
はじめまして。
おおでらです。
メール、読ませていただきました。

> 京都で映画の上映側の仕事に携わっております

※※さんが具体的にどのようなお仕事をされているか、寡聞にして存じ上げず申し訳ないのですが、京都での映画上映の困難に関しては、CES田中くんなどの活動などを通じ、またわたしも微力ながら青山真治特集など幾つかの機会でお手伝いさせていただいたことなどがあって、少しはその大変さを理解しているつもりです。
頑張って下さい。

さて、いただいた御意見ですが、わたしは※※さんとは少し違った風に考えております。
該当の記事を削除する/しないといった具体的な行動を相手に迫る前に、そうした自分とは違った意見に耳を傾けてみるのも重要ではないかと思うのですが、如何でしょうか?

> つまり、試写の目的は映画の「宣伝」のため行われるものです。

これに関しては、試写を組む側の意図としてはまったくその通りだと思います。
しかし、だからといって、

> みる側は、そのことを周知の上で試写室へ行き、
> 「宣伝」に協力できる作品であれば文章を書いたりする。
> これは自分には協力できない作品だと判断すれば協力しない、
> というのが試写に行くもののあるべき姿勢ではないでしょうか

これが本当に「試写に行くもののあるべき姿勢」となるのでしょうか?
それは、映画の「宣伝」を担当する側の理屈のみを一義的に押しつけるものではないでしょうか?

映画の試写とは、映画を作る者、その映画を配給し多くの観客に送り届けようとする者、そしてそれを見て批評という形で作品との関係を切り結ぼうとする者、この三者によるそれぞれの力がダイナミックに絡み合う場所であるべきだとわたしは考えます。
そして、それら三つの力は、本来、どれ一つとして他の二つよりも上位にあってはならない。
ないしは、それらがバランス良く均衡を保っている状態こそが、試写という場所の「あるべき」健全な姿であろうと思います。

しかし、現実にはこうなっていません。
映画というのは、作品であると共に商品であり、というよりむしろ、現在ではその商品としての側面ばかりが際だっていると言うべきでしょう。
作品としての評価や価値、本来あり得べき熱狂は、商品としての価値をめぐる経済原則、ないし作られたブームという現象に圧倒されてしまっているのです。

こうした中、
> これは自分には協力できない作品だと判断すれば協力しない
という※※さんの言葉をさらに拡張させて、要するに褒め言葉以外は一切口にするなという有言/不言の圧力ばかりがあたりに重く立ちこめているのが、この映画という世界の現実でさえあると思います。

さらに言えば、それはしばしば直接的な命令や排斥といった行動を伴ってさえ現れる。
今回の※※さんのメールがそうしたものの一つであるとは、もちろんわたしは思っておりませんが、しかし、映画批評という場で言葉を生み出す仕事を続けている者にとって、こうした圧力の存在は自明の前提であり、その中で、では自分はどう振る舞うべきなのかという問題と常に直面せざるを得ないのです。

それにしても、
> 否定的な意見を書いて興行をつぶす
これは、本当にそうでしょうか?

否定的な意見を書かれることが、宣伝担当者の本来の意図にそぐわないものであることは間違いありません。
しかし、まず第一点として、映画であれ他のどんな作品であれ、それを人目にさらすと言うことは、自分とは違った意見や価値観を持つ他者による判断の場に作品を送り出すということを意味します。
興行者とは違った専門集団であるマスコミ相手に試写を組むとは、既にそうした審理の場に作品を提出するということなのです。
マスコミは、映画宣伝の片棒を担ぐための御用聞きではありません。

※※さんは映画上映に関する大変さばかりを強調されてますが、わたしもシネクラブの運営に長年関わってきた一人として、その辛さは十分理解しているつもりでおります。
しかし、それを言うならば、マスコミだって大変ですし、プロとして映画批評を続けることだってすごく大変なことなのです。
みんな大変な中、しかし、互いの力が健全に独立し、映画を前進させるためのクリエイティブな場として例えば試写のような場所が機能するべく、それぞれの分を守って姿勢を正すのが映画に関わる者の「あるべき姿勢」ではないでしょうか。

自分の都合や理屈ばかりを誰かが押し通そうとしても、それは場所全体をなし崩しに堕落させていく以外、何ものをも生まないとわたしは考えます。
残念ながら、それこそがまさに、今の日本映画界が陥っている状況そのものであるように思いますが、しかし、だからこそ私は、そうした現状を肯定するつもりはないのです。

第二点として、否定的な意見に違和感を持つのであれば、そうした者が自分の考えをより魅力的な言葉として表明すればいいのです。
そうすれば、さらに第三者である別のものが、それら全てを読んで自分の思考へと導いたり、あるいは鑑賞の助けとして利用することでしょう。
そして、それこそが、批評とかマスコミ、さらには言論全般の本来あるべき姿なのです。
自分に都合の悪い言説に対して検閲的に振る舞ったり、それを封じ込めようとするのではなく、より魅力ある言葉をもってそれに対抗すればそれで良いじゃないですか。
そして、それこそが映画を活性化させることにもつながるのです。

そうなんです。
重要なのは、映画という場が活性化することなのです。

※※さんは次のように書かれています。

> 本当はもっともっと賛否両論は当然だし
> 批判的な意見も必要だと思っているのですが、
> 特にこのような作品に至っては、ここでダメならもう次回作の
> 配給はなくなってしまうと思いメールさせていただきました。

これは、タル・ベーラ作品の公開のような貴重な機会に際しては、異論を持つ者は口をつぐみ、まずはその興行を成功させよ、という論旨として受け取ることができます。
しかし、異論を持つ者に口をつぐませるような方法は、先述したように、まさにタル・ベーラのような作家の対極に位置するはずの、商売の世界に特有のものではないでしょうか。

わたしたちは、目的のためには手段を選ばない世界の中で、映画というものを通じながら、共に、そうした世界への抵抗を試みているはずです。
であるとするならば、わたしたちはやはり、手段を選ばなくてはいけない。
目的によって正当化されるだけではいけない筈なのです。

そしてもう一つ、こちらの方が遙かに重要ですが、そうした作られたブームを捏造したところで、それは決して映画のためにはならないし、タル・ベーラのためにもならないということもあります。

「『×××××』サイコー!!」などと「一般観客たち」に叫ばせるテレビCMなどの作り物の興奮に心の底からうんざりしている姿こそ、「かつて90年代にブームになったミニシアター、そしてそんな映画館でかかっていたような映画」に熱狂するわたしたちの出発点の一つであるわけじゃないですか。
であるならば、そこで必要とされるものは、まさに「賛否両論」などを通じた、映画という場所全体の活性化であるはずなのです。

繰り返しますが、タル・ベーラ作品に対する批判に異論を持つのであれば、それを自分の言葉として主張すればそれで良い。
その言葉の応酬を通じて、議論が盛り上がるのであれば、それこそが言論として本来あるべき姿だろうと思いますし、議論という一つの話題を通じて、その作品そのものの宣伝につながる筈です。

もし、その通りにならないとすれば、そして、まさにその通りにならないことが現在の問題でもあるわけですが、その場合、そこで何が障害になっているのかを検討し、現状に即した具体的な解決策を考えるべきなのがわたしたちの取るべき道なのであって、少なくとも、商業主義の一義的支配に屈してしまうことは、わたしたちに何の解決ももたらしてはくれないのです。

以上。
こうした理由から、ブログの記事を削除することはしませんが、
> もしくはこのメールをそのまま掲載していただいても結構です
ということですので、わたしのこの文章と共に、今日の記事として掲載させていただこうと思います。

メール、ありがとうございました。

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3 Comments »

 
  • ※※※※ より:

    大寺さま

    こんばんは。
    丁寧なご回答ありがとうございました。大変恐縮です。

    件のメールを送っておきながら、いただいた回答にはまさにその通りだという思いです。
    自分でも正しくないと思いながらも、映画のおかれた現状と本音との折り合い。そういったジレンマの中からでてきた戯言と反省しております。
    「倫敦から来た男」については私は未見のためどうこう言うことはできませんが、ただ、これまでの彼の作品をみてきた限りでは、ジャン・グレミヨン、フリッツ・ラング、ジョルジュ・フランジュらをほのめかすものの、その映画はまったく独自のもので、彼を評するにはむしろ文学界に依ってしかるべきであり、前作「ヴェルクマイスター・ハーモニー」をみて、これは「カフカとドストエフスキーとボルヘスの狭間に漂う亡霊のような映画」と感じました。あるいは埴谷雄高の「死霊」とも。
    「倫敦から来た男」、私は公開後にみることになると思いますので、そこで改めて“議論”ができれば、そして、おっしゃるようにそこから少しでも広がってくれればと願います。

  • admin より:

    ※※さま

    コメント、ありがとうございます。
    また、わたしからの意見も正面から受け止めていただいて、とても嬉しく思います。
    最初のメールを拝見させていただいた限りにおいて、※※さんはたいへん真摯な方であるとの印象を抱き、そしてなおかつ、そこには私にとって納得のいかない論旨が含まれておりましたので、ああいう形で長めのお返事を書くことで、わたし自身の意見と立場を明らかにさせていただいたわけです。

    また、文中にも書きましたとおり、これは同時に映画批評家として日々直面せざるを得ないリアルなテーマでもあり、そこで自分がどういう感想を抱き、どのように行動しているのかという問題をあらためて明確にしておく良い機会であるとも思いました。

    『倫敦から来た男』に関しては、前回書いたことを取り立てて修正するつもりは今のところないのですが、もう少しだけ補足しておくと、この作品は、四方を壁(ないし鏡ないしガラス窓)によって区切られた、ある閉ざされた空間の内部に位置する者が、その瞳の持続の中、境界を行き来する者たちを凝視し続けることで、ふと気がつけば、そうした自分自身が境界を踏み越えてしまい、それまで見たことも聞いたこともなかったようなとんでもない場所にまで至ってしまった、という主題が描かれているはずです。

    しかし、であるとするならば、まさに同じように、四方を壁(ないし鏡ないしガラス窓ないしスクリーン)によって区切られた、ある閉ざされた空間(=映画館)の内部に位置するわたしたち自身が、その瞳の持続(ワンシーン=ワンショット)の中、境界(=スクリーン)を行き来する者たちを凝視し続けることで、ふと気がつけば、そうした自分自身が境界を踏み越えてしまい、それまで見たことも聞いたこともなかったようなとんでもない場所にまで至ってしまった、という、映画観客としての、ある根源的な変容体験としてそれが与えられなければならなかったのだと思います。

    だが、『倫敦から来た男』という作品は、そうした体験を迫るものとして、わたしには感じることができなかった。
    それは一つには、この作品のワンシーン=ワンショットが、しばしば、持続のための持続としてのみ機能しており、それがある根源的な変容可能性を孕んだあやうさとしては感じることができなかったということが原因となっているように思います。

    そしてそれは、わたしにとって、この作品の致命的な欠落として見えるのです。
    それは立派な芸術作品になっているかも知れないが、映画としてわたしに迫るものとしては感じられなかったと言うのは、こうした理由からなのです。

  • admin より:

    「この作品のワンシーン=ワンショットが、しばしば、持続のための持続としてのみ機能しており、それがある根源的な変容可能性を孕んだあやうさとしては感じることができなかった」

    この部分に関して、さらにもう少しだけ説明しておきましょう。

    『倫敦から来た男』には、主人公が境界を自ら踏み越えることとなる、ある決定的な行動を映した場面があります。
    この場面で、カメラは、画面奥へと歩みを進め、そこである行動を行い、そして再び画面手前へと戻ってくる彼の動きをワンシーン・ワンショットの持続の中でとらえながら、同時に、画面手前の岸壁が満潮による水面の上昇によって高まった波によってさらわれて行くさまをつぶさに映し出しています。

    それは、とてもよく理解できる。
    しかし、そうした主題系に基づく理解を超える圧倒的な映画体験として、その波の高まりが、それを見つめる観客である私の瞳へと押し寄せてくるものとしては感じられなかったというのが、ここでの大きな不満となっているのです。

    わたしは、タルコフスキーという映画作家をそれほど高く評価する者ではないのですが、しかしそれにしても、彼は、テマティックな反響としてではなく、実際に観客の心を波によって浸すためには、映画はどれほどのことをしなくてはならないか、とてもよく理解していたように思います。
    そして、わたしが見る限り、『倫敦から来た男』のタル・ベーラは、残念ながらその域にも達しているようには見えなかったのです。

 

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