雑感090909

映画には最終編集権というのがあって、要するに撮影で撮ってきたフィルムの中で、どの部分を使いどの部分を捨てて最終的な作品として仕上げるかという判断を下す権利なのですけど、映画作家にとってこれはもちろん死活問題に関わるわけですよね。だからこそ、たとえばストローブ&ユイレなんて人たちは、最終編集権だけではなく、プリントとその流通・上映に関わるあらゆる事柄を自分たちのコントロール下に置こうともする。

では逆に、さまざまな事情から、自分たちの作品を仕上げる権利を奪われた状況下で製作しなくてはいけない場合、映画作家は、そこで一体どういう戦略をとるべきであるのか。
世の中、そんな悪い人たちばかりじゃないから、任せておいても大丈夫というのは、この場合、あまりにも楽天的すぎるでしょう。世の中、たしかに悪い人たちばかりじゃないのですが、そんな人たちが、思っても見なかった致命的なダメージを作品に与えてしまうというのが、私たちが生きているこの世界ってやつなのですから。
あったはずのものがなかったことになってしまい、コアであったはずの部分がすっぽり抜け落ちてしまう。単に抑えで回していただけのフィルムが、まるで作品の中心であるかのように使われてしまうこともあるのです。

だからこそ、資本主義に対して一切迎合してはいけないのだ、とストローブなら言うかも知れません。
その通りです。
でも、それだけではないってのも、その通りなんですよね(笑)。
それはすなわち、誰もがストローブではないし、なることもできないし、なるべきでもない、ということなのですが。

だから、一人一人が自分なりの戦い方を考えていく必要があるわけですし、状況に応じてインプロバイズしていかなくてはいけないのですが、たとえば、最終編集権を持たない者の戦い方の一つとして、そもそも上映時間ギリギリしかフィルムを回さない、ってものがありました。
これなんかは、なかなかよさげですね。
でも、資本主義ってのもなかなかしたたかであって、かつてのように撮影クルーだけがロケ先に行って自分たちの仕事に没頭できる環境であればともかく、いまや撮影現場にまでやってきて、あれこれ指示を出したりするのです。
あれを撮れ、これは必要ない、この場面は全部カットして下さい。などなど。

これはキツイ。
じゃあどうしよう。
ガチでぶつかっても、どうにもならない。こちらの生殺与奪を握っているのは向こうなのですから。金を持っている人間ってのは、こういう場面でなかなか露骨だったりします。
一般論として、金を持つ、メディアを持つってのは、人をしばしば酷く下品な存在に変えたりするんですよ。

じゃあ、しょうがない。
そこは負けとけ、って、わたしなんかは思ったりもしますね(笑)。
そこで大立ち回りを繰り広げて、局地的かつ部分的な勝利をもぎ取るってのも、あるいは可能かも知れませんし、それが必要な場面もあったりしますけど、正直、いつもいつもそんな戦い方やってるわけには行きませんし、むしろ、大きな意味では負けになったりもします。

じゃあ、そこでは無駄な戦いをやめて、それはそれとして軽やかにスルーして、さっさと次の仕事に向かうってのも一つの戦い方だったりするのです。
んで、不毛な戦いに消耗せず、その分のエネルギーをセーブしておくことで、一方でガチの仕事を展開できる場所を別に成立させる。別のポジティヴィティを見出す。作り出す。そのために力を使う。

全体で一つの形を作る、ってことですね。
あれもあり、これもあり、それら全体で一つの仕事として見えるものにする。
フライシャーとストローブの両極を同時に実践しつつ、全体で自分の形を作り上げることだと言っても良いかもしれません。

そしてこれは、映画を撮る場合にだけ限る問題なのではなく、現代社会を生きる中、もっと広く、さまざまな場面でわたしたち自身に問われている問題であろうと思います。
つか、明らかにわたし、比喩的に読んでくれって感じで書いてますよね(笑)。

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