『抱擁のかけら』

Los_Abrazos_Rotosもう何年もシナリオ書いてます。

ジャンルものが出発点で、明確なストーリーラインがあって、主人公はじめ登場人物もあらかた決まっており、出来事が起こる場所や季節から、そこでどんな会話が交わされどんな心の動きが感じられるかというところまで、ほぼ見えている状態です。
今すぐにでも誰かにお見せできる気がしますし、実際、そういう話を何度か他人にしたこともあります。

ただ結局のところ、今まで実際そうしてこなかったのは、そこに一つだけ問題があるからです。
それはつまり、わたしはどうやら、シナリオの書き方というものが分からない(笑)。

いや、形式の問題じゃないってことは分かります。
いったん自分の好きなようにでもまとめて、あとで、それを実際の役に立つよう修正してやれば良いんでしょう。
シナリオの書き方みたいなものを講釈した本も、神田に行って何冊か買ってきたことがありますけど、出だしだけちょっと読んでみて、うーん、これは今自分が必要としているものとは違うな、と。

物語を頭の中で転がしている状態なんだと思うんですよ。
転がすうち、よけいな思いつきは消えて、角が取れて丸くなってみたり、あるいは堅いものにぶつかってヒビが入ったり割れたり、また別なときには、不意に脇から転がってきたもう一つの玉といきなり合体してみたり、あるいはやっぱりうまくいかなくてそこから零れ落ちてみたり。

たぶん、すでにいくつもの物語がそこから派生したように思いますし、いろんな登場人物や出来事が、その中で生まれては消えていったように思います。
いろんな雰囲気や、いろんな感受性、いろんな思いつきが生まれては消えた。

おそらく、絶え間なく変化し続けるその流れの中で、何か一つ形式に沿ったまとまりを取り出してやればそれでいいのでしょう。
しかし、そのきっかけがつかめない。

それはたぶん、結局のところ、そこに何かが足りないからなのでしょう。
それは、絶え間なく変容する流れのように見える物語が、それ自体の力学によって静かに熟成する瞬間なのかもしれませんし、あるいは、誰か他人との思いがけない出会いとか、そういう外的なきっかけであるのかもしれません。

いずれにしても、こういったすべては、わたしの頭の中で、批評書いたり人前に出て話したりするのとは違った部分で起こっている出来事なのです。
同じ一つの頭であるとは言え、それらはまるで、夜と昼とが別の顔を持つかのように、お互いがお互いに対してある部分で融け合いながらも、本質的には排他的な関係にあるような気がする。

したがって、なにか一つの形式であるとか熟成であるとか、そういったものが見えそうになるたびごとに、全く違ったタイプの頭の動きを必要とされる仕事を始めることとなり、それでまた数ヶ月開いてしまう。
そういうことを繰り返してきたように思います。

ただ、そろそろ今年辺り、ひとつシナリオもまとめてみたいなあ、と。
そんなことを考えながら、ペドロ・アルモドバルのこの新作を見ました。

『抱擁のかけら』は、謎解きでありサスペンスであれば、ロマンチックなラブロマンスであり、ベタベタのメロドラマでもあります。
親子の物語であれば、復讐譚でもあり、芸術家の内面に迫るものであれば、フィルムノワールでもある。

そして、それらの物語が、結局のところ、複数の登場人物の間で起こる一つの出来事に対する「ものの見方」の問題であるに過ぎないことを明かしつつ、ざっくりとそのすべてを私たちの前に丸ごと投げ出してみせる。
このあっけらかんとした大胆さこそが、『抱擁のかけら』の最大の美徳となっているでしょう。

巨匠の秘密、物語の秘密とは、要するに確信のことであり、その確信の一つのありようについて、わたしたちはこの作品を見ることでハッキリと学ぶことができるのです。

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