ケーリー・グラント式恋愛作法

his_girl_friday1930~40年代のハリウッドで流行した映画ジャンルの一つに、スクリューボール・コメディというものがあります。

ホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』とか『赤ちゃん教育』『僕は戦争花嫁』、キャプラの『或る夜の出来事』、ウェルマンの『ナッシング・セイクレッド』なんかがその代表作になると思いますが、基本的には、別名セックス・ウォー・コメディとも呼ばれるように、男女の恋愛駆け引きを面白おかしく、かつ、きわめて激しくハイテンションに描いたコメディ映画群を指すものです。

映画史上のベストを競うような傑作の数々がそこには含まれていて、何度見直しても新たな発見があるばかりではなく、さらにすごいのは、今見直しても本当に面白い。
いや、紋切り型の美辞麗句としてそうなのではなく、あるいは、シネフィル的な価値観としてのみそうなのでもなく、今普通に見て、今の感性でメチャクチャ面白いんですよ。

実際、以前テレビで共演させていただいた小段典子さんにオススメして、たいそうドハマリしていただいたという経験もあります。
また、大学の授業で抜粋を見せた学生たちの反応からも、同じ手応えは十分感じ取ることができました。

マジ面白いです。
未見の方は、人生で貴重な楽しみの一つを奪われたままでいるに等しいですから、今すぐにでもレンタル店まで走ってください。

それはともかく。
話は急展開しますが。

恋愛というのは、このジャンル名にもあるように、やはりセックス・ウォーであるわけですね。
戦争です。

お互い、地の利・時の利を生かしつつ、持てる知識と知恵のすべてを駆使することで、いかに相手を自らの張り巡らせた罠にかけ、その本陣を籠絡するか。
これこそが、本来、健全な恋愛のあり方というものであったと思います。

有り体に言うと、地の利とは容姿、時の利とは若さのことであって、この辺になるとドンドン生臭い話にはなってきますが(笑)、しかし、決してそればかりではないというのが、本来、恋愛という競技の持つ健全なスポーツ性であったのではないでしょうか。
恋愛とは、総合競技なのです。

しかし、こうしたことを口にすると、既に大きな反発がそこで生じるであろうと予想されるのですが、それは何故なら、セックス・ウォー・コメディならぬロマンチック・コメディのロマンチックというイデオロギーに、多くの方が無自覚なまま染まりきってしまってるからだと思います。

「誠実さ」のイデオロギーであり美学ですね。
「純愛」の物語。
これは、若い人ほどそうです。

いや、別にいいんですよ。
イデオロギーに染まっているから駄目だとか、そんな70年代な台詞を改めて口にしたいわけじゃないです。

まあ、自分が依拠しているものが何なのか、その好悪の判断、気分の原因は何に基づいているのか。
こうしたことは、盲目的に発して終わりにするのではなく、あらためて自らに問い直しておくべきだろうとは思いますけど。
イデオロギーそれ自体が、すなわち悪であるわけでは決してない。
それは、単純すぎる判断です。

それはともかく、恋愛が戦争であるとするならば、そこで重要になってくるのは、それが本当に戦争であるのか、ということです。
すなわち、お互い、自らの武器をちゃんと使えているか?

ああ、因みに、わたしは基本的に戦争反対の立場ですけど、それは今関係ないので脇に置きますね(笑)。

男女の両陣営が、互いに自らの権利としての武器を、きちんと行使できる状態にあるのか。
もし、そうなっていないとすれば、それは戦争ではありません。
虐殺です。

では、男女それぞれの武器とは何でしょう。

そんなの、個々のケースでそれぞれ違うのは当然の話ですし、安易に抽象化することの暴力性も十分に認識しているつもりですが、それでも敢えて抽象化するならば、それは主に、誘う側=声をかける側と誘われる側=声をかけられる側の立場の違いに由来するのではないかと思われます。

まず、誘われる側=声をかけられる側の武器とは、何か。
それは、いつでも相手を拒絶できるということ。
これは、きわめて強力な武器であり、ほぼ最終兵器に近いのではないかと個人的には感じます。

しかし、一方で、声をかけられる側とは、声をかけられない限り自らの権利を行使することもできない弱い立場であるわけですから、こうした強力な武器を所有することは理にかなっているともわたしは感じます。

また、自らが拒否権を行使する前に相手がそれを実行してしまうことのないよう、あの手この手で相手を誘惑し、自らの元に引き留めておくことも、これまた当然の戦略です。

相手側としては、なんて理不尽な話だと感じられることでしょうけれども、それは仕方ない。
恋愛のこうしたステージにおける、声をかけられる側の特権というものだからです。

逆に、では、声をかける側の武器とは何か。
それは、声をかけられる側とは反対に、最初の段階で相手を選ぶことができるということです。
受容的選択の自由ではなく、積極的選択の自由。
これこそが、声をかける側の持つ大きな攻撃手段であるわけです。

ところが、こちらの武器に対しては、ある防御装置が世の中には存在します。
とても強力であり、実践的にきわめて有効なもの。
それこそが、先ほど触れた「誠実さ」の美学でありイデオロギーであるのです。

もちろん、声をかけられる側の最終兵器=拒絶の権利に対する防御的イデオロギーも存在するでしょう。
しかも、それはしばしば同じものであったりもする。
しかし、少なくとも現在の日本において、それは、声をかける側に求められる「誠実さ」や「純愛」「赤い糸」のイデオロギーほど強力なものとはなっていない。

あるいは、いずれにしろそれは、声をかけられる側の利害関係において、本質的に好ましいものであるとも言うことができるでしょう。
実践的には、どう転んでも有利に使える。

そして、「誠実さ」のイデオロギーが強力であるのは、それが単にアンチ・ヴァイラスであるばかりではなく、むしろそれ自体、積極的にヴァイラスの役割も果たすということ。
いや、さらに言えば、現在の日本における恋愛イデオロギーのチャンピオンこそが、この「誠実さ」であり「純愛」というものであるとさえ、わたしは感じています。

「誠実さ」「純愛」「赤い糸」を持ち出されると、本来、積極的選択の自由という武器を持つ側の人間は、その能力を十分に行使することができない。
対抗兵器として、これほど強力で有効なものなんて、そうそうないと思いますね。
北朝鮮に対する国際世論の圧力など、目じゃないくらいです。

しかし一方で、声をかけられる側の者としては、自らの立場の弱さを克服するため、相手の攻撃能力を打ち消しておく必要が常に差し迫った緊急課題としてあるわけです。
また、一対一の関係としてさまざまな行動制限を設けられた側の人間が、個人的な関係を越えた社会的戦略としてこうしたイデオロギーを有効に活用するというのも、十分納得のいく当然の権利であると感じられます。

したがって、こうしたことからわたしとしては、「誠実さ」イデオロギーの君臨ぶりに対して、それ自体頭ごなしに否定しようとは思いません。

ただ、ヴァイラスに対するアンチ・ヴァイラスに対するアンチ・ヴァイラスというのも、やはり、歴史的には存在してきたわけですよ。
それは、忘れちゃいけないよね、と。

また、声をかけられる側の目線で言っても、相手に北朝鮮化されてしまって、それでいいのか?
いいわけないですよね。

では、「誠実さ」に対抗しうるアンチ・ヴァイラスとは何か?
それは、簡単に言って、表と裏、建て前と本音という奴です。
この辺りの積極的な戦略的価値、どっかで忘れられつつあるのではないかとわたしは危惧しています。

たとえば、最初に上げたようなスクリューボール・コメディで、ケーリー・グラントがキャサリン・ヘプバーンとかロザリンド・ラッセルのような女性と恋に落ちて、駆け引きをして、相手の心をつかむ。
そこで、映画のエンドマークから見るならば、グラントはひたすら誠実で、二人はもともと「赤い糸」で結ばれていたようにも見える。

それで誰かが満足し、その後の二人の人生が上手くいくのであるならば、それはそれで良いと思います。
大事なのは、結婚そのものではなく、その後に続く人生なのですから。
めでたし、めでたし。
イデオロギー万歳ですな。

ただし、それをエンドマークから見ることのできない人間、すなわち、スクリューボール・コメディのド真ん中を生きている人間にとって、それで万事めでたしとはならない。

なぜなら、それは戦争ではなく、虐殺を生むからです。
フェアな戦いとはならないからです。

では、フェアな戦いは、どこにあるか。
簡単です。
ケーリー・グラントの顔を見ればいい。

だって、こんな顔つきをした人が、腹に一物もっていないわけないじゃないですか!
それを正確に見抜いていた監督の一人が、たとえばヒッチコックであったわけですよ。

しかし、それでもケーリー・グラントとロザリンド・ラッセルが恋に落ちてゴールインしたならば、二人は互いに誠実で純愛をして赤い糸で結ばれていた運命的なカップルなんです。
恋愛において、過程は結果に肯定される。
それ以上、深く考えない!
それでいいんです。

ところが、一方で、じゃあ、現在ケーリー・グラントのような役回りをすることのできる役者がどこかにいるかというと…。
これが、全然思いつかない。

まあ、ベストなところでヒュー・グラントでしょうかね。
それでも、全然弱いですけどね。

ヒュー・グラントは、彼自身良い役者さんだと思いますけど、基本的にビルドゥングスロマンの人であると思っていて、それはすなわち、「誠実さ」のイデオロギーを味方につけてるということです。
だからこそ、今風のラブコメでも主役を演じ続けることができる。

一方、ケーリー・グラントもそれは変わらないのですが、ただし、彼の場合、いったん「誠実さ」の称号を味方に付けながらも、そのイデオロギーを根底から揺るがせてみせるような得体の知れない底の深さ、器の大きさを最後までこちらに感じさせ続けるのです。

単純に言って、世に言う「誠実さ」の美徳なんてものよりも、ケーリー・グラントの方がはるかに大きな存在であるわけですよ。
「誠実さ」「純愛」「赤い糸」なんて、ケーリー・グラントに比べれば、取るに足らないちっぽけなものでしかない。

そう。
だから、正確には表と裏、建て前と本音ではなく、器の大きさ、懐の大きさに関わる問題なのかもしれません。
清濁併せ呑みつつ、そのすべてを自分の味方につけながら、しかも、それ以上の存在であるとどこかで感じさせる要素を残す。

もちろん、誰もがケーリー・グラントになれる訳ではない。
誰もが、あんな得体の知れない大きな存在になんてなれはしません。
でも、少なくとも、それが美徳として、一つの理想として機能していないことには、その境地を目指すことすらできないじゃないですか。

世に言う草食系男子とは、しばしば、マッチョな支配原理に対する反発や嫌悪と「誠実さ」のイデオロギー世界における無力感との板挟みの中で獲得された、虐殺の積極的な受け入れというネガティヴ=ポジティヴな身振りの一つではないかと思いますね。
ネガティヴ=ポジティヴな身振りとは、そこで実質的には選択肢が不在しているにも関わらず、その不在を積極的に受け入れることによって、それがあたかも自らの自由意志であるかのように振る舞うことができる、というような意味です。

本質的に選択肢が欠落しているわけですから、そこでは肯定・否定の身振りが機能することはなく、共感の広がりと連帯のみが唯一の支配原則としてその場を支配することにもなるでしょう。

もちろん、持って生まれたかどうかは知りませんが、本来の性格として草食系がしっくりくるという人も多い筈です。
また、それが個人の精神的な平穏や関係性の安定を生むのであるならば、それはそれで良いのではないかと思いますが、しかし、個人的な観察による限り、どうやらそうとばかりも言えないらしい。

他に行き着く場所もなく、仕方なくそうした身振りを仮に選択する場合も多いのではないかと、わたしは見ています。

であるとするならば、ここでやはり「最低限の選択」「選択の不在の積極的な選択」というもの以外の選択肢を残しておくことも重要なのではないかと。
今ここで再び、ケーリー・グラントを思い出しておくことも、意外に大事なことではないかと思うのです。

世の中には、純愛映画のチマチマした男子たちのちっぽけな「誠実さ」ばかりではなく、ケーリー・グラントの「誠実さ」というものがあるのだと。
ケーリー・グラントは、自ら「誠実さ」よりも遙かに大きな存在であるにも関わらず、あえてそのイデオロギーに身を添わしてみせることができるほど、並外れた度量を備えていたのだと。

恋愛におけるケーリー・グラント主義というものを、いまここでわたしは提起しておきたいと思います。

恋愛に際しては、ケーリー・グラントを思い出そう。
人は「誠実さ」に身をなぞらえつつ、さらにそれよりも大きな存在になることができる。

あ、そうそう。
因みに、ここで書いたことのすべては、純粋に一般論に基づきます。
けっして、わたし個人の話を書いているわけではありません。

わったしは違いますよ。
ええ。
誠実ですもん(笑)。
純粋だし。

ほんとです。

それでは、このへんで。

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2 Comments »

 
  • kudokan より:

    面白く読ませていただきました!

    読んで思ったのは、誠実さが今やかくも強固なイデオロギーとなったのは、本音と建前の使い分けがあまりにも普通のことになったからではないかということです。
    それゆえに、本音も建前も、どちらも同じ程度に本音でありつつ建前であるという認識(直観)が人口に膾炙した。
    そこで、言動の基本原理としての誠実さというイデオロギーがもてはやされるのは自然なことでしょう。
    大寺さんの文脈に照らしつつ考えてみるに、そこでヒュー・グラントが女性たちに要請されるのは、彼が最終的に本音の人=誠実さを手に入れる人だからですよね。

    一方、それに対して、ケイリー・グラントが底知れぬ優位を保っているのは、ある言動が本音だか建前だかは分からないという一般的な前提に恐らくたってはいるものの、その前提をただ受け入れるのではなく、逆用している点においてでしょう。
    自分の言動が相手に本音(のようなもの)として受け取られるか、建前(のようなもの)として受け取られるか、これを場合に応じて確実にコントロールできているということです。
    と、私なりにまとめてみましたが、ケイリー・グラント、やばいですねえ、改めて。

  • admin より:

    コメント、どうもありがとう。

    本音と建て前の辺りは、読んでてなるほどと思いました。
    今風に言うと、ネタもベタもスーパーフラットなこの世界の中では、ただ誠実さのイデオロギー(と、そこから拡がる共感の涙)のみが有効なものとして機能する、というようなことでしょうか。
    ま、慣れない用語は使うもんじゃありませんが(笑)。
    後半で、本音と建て前を大きさの問題と言い換えておいたように、ネタとベタではカヴァーできないものとしてのそれ、得体の知れない大きさの問題としてのそれが、もちろんここでのテーマであったわけです。

    あるいは、それを余白と言い換えても良いかもしれませんが。
    宮川淳的な無限に書き込まれる余白とも、それはどこかで共鳴するかもしれません。
    そういえば、宮川淳が亡くなったのって、今のわたしと同じ年齢なんですよね。
    そっかあ。

    それはともかく、恋愛論の方に引きつけて言うと、美人ってただ微笑んでいるだけで男子たちはそこに無限の意味を読み取ろうとするじゃないですか。
    そこには、ネタでもベタでもない大きな力がある。
    ただし、美人の微笑みは、同時に不安という感情も与えるわけですよね。
    この人は、いったい何を考えているのだろうという不安。
    ケーリー・グラントが美人の微笑みに対しても優位に立つのは、まさにこの一点においてだと思います。

    彼は、不安ではなく確信を与える。
    無限の余白を伴った確信を相手にもたらすわけです。
    あまりにも大きな何かが、しかし今間違いなくここにいてくれるという揺るぎない確信。
    これこそが、ケーリー・グラントの放つ巨大な魅力であり、現在の私たちが汲むべき大いなる力の源泉ではないかと思います。

    さらに、話を俗っぽくしておきましょう。
    わたしがここで論じようとしたのは、ケーリー・グラントでさえまだ高尚だというのであれば、それは市川海老蔵のことだと言ってもいいです(笑)。
    市川海老蔵を小林麻央的なものから救い出すことであると。
    小林麻央ではなく、小林麻央的なものというあたりがミソですが。
    わたしたちは誠実さのイデオロギーから解放される必要があると、真剣に思ってます。

 

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