美女と教育

Lehrstucke04前から見ると美女でありおばさんでもあるのに、背中から見ると英雄でもあるというのがケーリー・グラントを理解するための一つの表現であるとして、同じことは、ネルソン・マンデラに対しても言えるのではないかと感じます。

と言うわけで、昨日の文章と同じようなアイディアに基づいたマンデラ論を書きました。
『インビクタス』原作本に対する書評(サンケイ新聞掲載予定)です。

人は、それなりに訓練して顔を操作することができるかもしれませんが、背中を操作することは遙かに困難を極める。
しかし、それは現実的に可能なことなのだと。
だから、男子たちも背中を恐れず生きていこうよ、きみたちはすでに十分おばさんだし~、みたいなものですかね(笑)。
背後にあるメッセージとしては。

掲載日など決まりましたら、またあらためてここで書く予定ですが、どうぞよろしくお願いします。

もうひとつ告知です。

もう今日になりましたけど、映画の研究会[Lehrstucke 04]が開催されます。
とても面白いイベントに育ってきたと思います。
面白いです!

是非、多くの方に参加していただきたいと思ってます。
詳しくは、こちらの記事をご参照ください。

http://blog.ecri.biz/?p=844
http://lehrstucke.ecri.biz/?p=144

こちらも、よろしくお願いします。

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1 Comment »

 
  • admin より:

    よく人は五感の話、なかでも視覚的な世界像の話を好んで論じて、あと柄谷さんみたいな人は顔の話も論じる訳ですけど、でも、人にはまだ背中もあるんですよね。
    顔を見て、こちらを見られて、そのあとまだ、背中に回り込むまでの時間もある。
    この全てを(同時にではなく継起的に)考えるのが重要だと感じるのは、たぶんわたしが映画批評家だからだと思いますが、つまりそういうことなんじゃないかと思いますね。
    五感の話の中に無理矢理落とし込むと、世の中には視覚的な世界像の他に触覚的な世界像もあるだろう、と。
    指先によって触知される世界とは、つねに、あるいは既に継起的にその場に現れるものでしかありません。
    そこには、必ず時間が含まれる。
    さらに、背中の場合、それは触知するものではなく、隠されたり、晒されたり、指さされたり、見上げられたりするものである。
    そして、こうした時間の中でこそ、ケーリー・グラントはわたしたちの前に姿を見せるのです。

 

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