cineclub
| - cineclub - 横浜日仏学院シネクラブなど、各種講演活動 by 大寺眞輔 shinsuke ohdera |
| "cineclub sampler" トークのサンプラー 2006年11月18日 『冷たい水』 横浜日仏学院シネクラブ 2006年11月24日 「映画と経済」 中央大学経済学部 100周年記念寄付講座 講演:大寺眞輔 |
| 横浜日仏学院シネクラブ 活動記録 |
| 会場: 2004年01月~2004年09月 横浜日仏学院 2004年10月~2005年12月 横浜美術館レクチャーホール 2006年01月~現在 東京芸術大学馬車道校舎 |
| 『現代映画講義』 |
2005年5月までに開催された横浜日仏学院シネクラブの中から10回分のトークを収録。大寺眞輔 編著 ゲスト講師:黒沢清、青山真治、冨永昌敬、佐々木敦、安井豊、樋口泰人 青土社、250頁、本体2200円(税別) 詳細は、こちらのページで。 |
| 2004年 冬学期:犯罪映画 |
犯罪映画は、映画史上、最も古いジャンルの一つであるばかりでなく、現在まで非常に高い人気を誇り、犯罪の登場しない作品を探すことが困難だとさえ言える程です。また、アメリカにおいて形式的な一つの頂点に到達したこのジャンルに対して、フランスや日本のような国では、如何にして別種の映画が可能かという先端的な試みが繰り広げられる舞台ともなりました。犯罪と映画とはまた、近代以降の都市の問題としてもきわめて密接な関わりを持っており、今日の映画において重要な問題の幾つかをそこから探ることも出来るでしょう。現在の世界の中で、どのような映画が可能かという問いかけも、同じ場所から見ることができる筈です。
第1回:『ネネットとボニ』Nenette et Boni(クレール・ドゥニ) |
| 2004年 春学期:都市と映画 |
映画は、都市の中で生まれ、都市と共に成長してきました。1895年12月28日、世界で最初に観客の前で上映された「シネマトグラフ」は、まさに都市に集まる人々の娯楽への欲求を満たすための見せ物として、この世に誕生したのです。そして、物語を語るようになった映画は、私たちが住む都市にカメラを向け、そこに住む人々を主題とするようにもなりました。スタジオの中で、いかに本物そっくりのパリを作るかという難問に苦心した人たちもいました。また、カメラを片手に、現実のパリの街頭へと飛び出していく若者たちも登場します。映画が生まれる背景となった、近代的な都市の誕生について、あらためて振り返ろうとする作品も生まれてくることになるでしょう。映画は、都市のメディアなのです。
第4回:『イルマ・ヴェップ』Irma Vep(オリヴィエ・アサイヤス) |
| 2004年 夏学期:横浜フランス映画祭関連企画:エマニュエル・ベアール特集 |
現在のフランス映画を代表する女優のひとりであるエマニュエル・ベアール。彼女は2004年6月に行われた横浜フランス映画祭の団長をつとめました。映画批評家の目を通して、彼女の出演作品の中からもっとも興味深い2作品を選び、上映・解説します。
第7回:『深夜カフェのピエール』J’embrasse pas(アンドレ・テシネ) |
| 2004年 秋学期:映画-監視する眼/管理社会をめぐる3本の映画 |
近代以降の社会では、<管理>の問題が、わたしたちの生活や文化に常に大きな影響をもたらしてきました。そして、映画というメディアを可能にしたカメラや映写機、映画館という技術は、いずれも、そうした問題と深く歴史的な関わりを持っているのです。マイケル・ムーアと彼の作品『華氏911』が提起した主題は、決してアメリカ社会に限定されるものではありません。私たちは、映画史をさかのぼりつつ、幅広い視野を持って、この問題を考察しておく必要があるでしょう。
第9回:『勝手に逃げろ/人生』Sauve Qui Peut (La Vie)(ジャン=リュック・ゴダール) |
| 2005年 冬学期:カイエ・デュ・シネマ/映画と批評 ~カイエ週間関連企画~ |
ジャン=リュック・ゴダールは、かつて、世界と自分自身とを忘れながら知ること、思考しながら語ることにこそ、映画の本質があると述べました。そして、映画と映画批評とが切り結んできた複雑で生産的な関係もまた、同様の場所に於いて見出されるものではないかと私は思います。「カイエ・デュ・シネマ」という固有名と分かちがたく結びつけられている映画と批評との関わりを再考することは、すなわち、現代映画の歩みをそのまま辿り直すことにも繋がるのです。
第12回:『明日、引っ越す』Demain on d m nage(シャンタル・アケルマン) |
| 2005年 春学期:映画のモーション/エモーション |
モーションピクチャーとも呼ばれる映画にとって、事物や人物のモーション=動きは、常にその関心の中心的な位置を占めてきた。動きこそが映画のすべてであると定義される場合もあるだろう。一方、映画はまた、エモーション=感情の芸術であるとも言われる。それは、観客の感情を揺り動かそうとするばかりではなく、被写体としての登場人物をエモーショナルな極限状態に置くことを通じ、スクリーン上において、モーションとエモーションとの新しい結合の形を模索することにもなるだろう。
第15回:『ラ・ピラート』La pirate(ジャック・ドワイヨン) |
| 2005年 夏学期:ロスト・ハイウェイ |
今日のフランス映画を代表する二人のシネアストによる作品を通じて、サスペンス/スリラー映画の現代的な形を探ります。主人公たちは、ふとしたきっかけから、日常生活のハイウェイを逸脱してしまい、過去や記憶、歪められたヴィジョン、現実の背後に潜む亡霊たち、そしてついには、自分自身に隠されていた不可解な秘密とも出会うことになります。作品が喚起するさまざまなイメージは、やがて、デヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』とも同様、自己の廃墟や変容さえ見出すことにもなるでしょう。
第17回:『魂を救え!』La Sentinelle(アルノー・デプレシャン) |
| 2005年 秋学期:放浪紳士 |
ルノワールの『素晴らしき放浪者』やアルドリッチの『北国の帝王』をはじめ、映画史にはこれまで、数多くの魅力的な放浪紳士が登場しました。牧歌的な大らかさや気骨あふれる自由主義など、それぞれの放つ気風や雰囲気こそ違え、彼らには、近代的な社会システムには容易に馴染もうとしない、独立独歩の存在感が共通して備わっており、それこそがまた、これら放浪紳士の映画的な魅力へとつながってもいました。サークの作品からは、古き良き時代における、放浪紳士の最後の輝きを見ることができるでしょう。一方、カンテの作品は、放浪紳士の一種のネガのようなものを、わたしたちに見せてくれます。
第19回:『タイム・アウト』L’Emploi du temps(ローラン・カンテ) |
| 2006年 冬学期:カイエ・デュ・シネマ/映画と批評 |
かつて、ジャン=リュック・ゴダールは、世界と自分自身とを忘れながら知ること、思考しながら語ることにこそ、映画の本質があると述べました。同様に、映画と映画批評とが切り結んできた複雑で生産的な関係もまた、「忘れながら知ること」「思考しながら語ること」という場所に見出すことができるのではないでしょうか。「カイエ・デュ・シネマ」という固有名と分かちがたく結びつけられている映画と批評との関わりを再考することは、すなわち、現代映画の歩みをそのまま辿り直すことにも繋がるのです。
第21回:『“男たちと共に”演技するレオ』Leo, en jouant ‘Dans la compagnie des hommes’(アルノー・デプレシャン) |
| 2006年 春学期:ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち vol.1 クロード・シャブロル |
映画史上最大の事件の一つである、ヌーヴェル・ヴァーグ。シネクラブでは、この大事件がその後の映画史に与えた影響の大きさを、そこで活躍した映画作家たちの作品に具体的に触れることを通じて、改めて振り返ろうと思います。シリーズの第一回で取り上げるのは、かつてヌーヴェル・ヴァーグ三銃士の一人とも呼ばれたクロード・シャブロル。彼が六十年代に撮り上げた二本の傑作を上映します。
第23回:『虎は新鮮な肉を好む』Le Tigre aime la chair fraiche(クロード・シャブロル) |
| 2006年 夏学期:ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち vol.2 ジャン=リュック・ゴダール |
2006年夏学期のシネクラブでは、ヌーヴェル・ヴァーグを代表するというばかりではなく、もはや二十世紀が生んだ最も重要な芸術家の一人と呼ばれるにふさわしい映画作家である、ジャン=リュック・ゴダールの特集を行います。さまざまな変遷を遂げ、数多くの傑作を生み出した彼のフィルモグラフィの中でも、「映画大陸への帰還」と呼ばれ、きわめて充実した活動を見せた八十年代の作品から、この時期の代表作でもある『パッション』をフィルム上映します。同時に、9月に上映する『小さな兵隊』からは、ゴダール初期のみずみずしい感性を味わうこともできるでしょう。
第25回:『パッション』Passion(ジャン=リュック・ゴダール) |
| 2006年 秋学期:ヌーヴェル・ヴァーグの作家たち vol.3 映画の贈り物 |
ゴダールのように過激な映画、アンナ・カリーナのようにオシャレでポップな雰囲気を感じさせる映画…。もちろん、これらもヌーヴェル・ヴァーグの一つの側面であったことは間違いありません。しかし、シャブロルやドゥミやデプレシャンのように既存のジャンルを見事に活用し、そこに惜しみなく愛情を捧げた映画、あるいは、トリュフォーやアサイヤスのように上質の生地を繊細にカットした真新しいシャツのように清々しい映画…。これらもまた、ヌーヴェル・ヴァーグとそれ以降の作家たちがわたしたちにもたらしてくれた、もう一つの映画の贈り物であったのです。
第27回:『天使の入江』La Baie des anges(ジャック・ドゥミ) |
| 2007年 冬学期:特集ジャック・ドワイヨン |
あまりにも激しく、肉体的な「痛み」を伴った70~80年代の傑作群から、表面上は穏やかさを湛えるようになったものの、より豊かさと深みを増した近作に至るまで、ジャック・ドワイヨンは、そのあまりにも見事な演出力と緻密な構成力とによって、つねに映画界のトップランナーの一人であり続けました。今回の特集では、また、若き日のマリアンヌ・ドニクールの姿とともに、ジェーン・バーキンとの間に生まれた実の娘ルー・ドワイヨンの素晴らしさを再確認することができるでしょう。
第30回:『恋する女』L’ Amoureuse(ジャック・ドワイヨン) |
| 2007年 春学期:再考:少女たちの映画 |
とりわけ八十年代以降、ある種の映画では少女たちが特権的な被写体として作品全体にその輝きを与えてきました。もちろんそこには、男性映画作家たちによるファンタズムの受け皿として、少女という装置が都合良く機能したという側面もあるでしょう。一方、男性からの視線を自らの内面に折り返した存在として、少女という記号が一人歩きし始めた展開もあったように見えます。しかし、少女たちの映画がわたしたちに見せてくれたものには、そうした文化的・社会学的範疇には収まりきらないものがあった筈なのです。八十年代的な意匠が再び消費の舞台に上がりつつある現在、少女たちの映画からその本来の可能性をあらためて探り出してみたいと思います。
第32回:『デザンシャンテ』La Desenchantee(ブノワ・ジャコ) |

犯罪映画は、映画史上、最も古いジャンルの一つであるばかりでなく、現在まで非常に高い人気を誇り、犯罪の登場しない作品を探すことが困難だとさえ言える程です。また、アメリカにおいて形式的な一つの頂点に到達したこのジャンルに対して、フランスや日本のような国では、如何にして別種の映画が可能かという先端的な試みが繰り広げられる舞台ともなりました。犯罪と映画とはまた、近代以降の都市の問題としてもきわめて密接な関わりを持っており、今日の映画において重要な問題の幾つかをそこから探ることも出来るでしょう。現在の世界の中で、どのような映画が可能かという問いかけも、同じ場所から見ることができる筈です。
映画は、都市の中で生まれ、都市と共に成長してきました。1895年12月28日、世界で最初に観客の前で上映された「シネマトグラフ」は、まさに都市に集まる人々の娯楽への欲求を満たすための見せ物として、この世に誕生したのです。そして、物語を語るようになった映画は、私たちが住む都市にカメラを向け、そこに住む人々を主題とするようにもなりました。スタジオの中で、いかに本物そっくりのパリを作るかという難問に苦心した人たちもいました。また、カメラを片手に、現実のパリの街頭へと飛び出していく若者たちも登場します。映画が生まれる背景となった、近代的な都市の誕生について、あらためて振り返ろうとする作品も生まれてくることになるでしょう。映画は、都市のメディアなのです。
現在のフランス映画を代表する女優のひとりであるエマニュエル・ベアール。彼女は2004年6月に行われた横浜フランス映画祭の団長をつとめました。映画批評家の目を通して、彼女の出演作品の中からもっとも興味深い2作品を選び、上映・解説します。
近代以降の社会では、<管理>の問題が、わたしたちの生活や文化に常に大きな影響をもたらしてきました。そして、映画というメディアを可能にしたカメラや映写機、映画館という技術は、いずれも、そうした問題と深く歴史的な関わりを持っているのです。マイケル・ムーアと彼の作品『華氏911』が提起した主題は、決してアメリカ社会に限定されるものではありません。私たちは、映画史をさかのぼりつつ、幅広い視野を持って、この問題を考察しておく必要があるでしょう。
ジャン=リュック・ゴダールは、かつて、世界と自分自身とを忘れながら知ること、思考しながら語ることにこそ、映画の本質があると述べました。そして、映画と映画批評とが切り結んできた複雑で生産的な関係もまた、同様の場所に於いて見出されるものではないかと私は思います。「カイエ・デュ・シネマ」という固有名と分かちがたく結びつけられている映画と批評との関わりを再考することは、すなわち、現代映画の歩みをそのまま辿り直すことにも繋がるのです。
モーションピクチャーとも呼ばれる映画にとって、事物や人物のモーション=動きは、常にその関心の中心的な位置を占めてきた。動きこそが映画のすべてであると定義される場合もあるだろう。一方、映画はまた、エモーション=感情の芸術であるとも言われる。それは、観客の感情を揺り動かそうとするばかりではなく、被写体としての登場人物をエモーショナルな極限状態に置くことを通じ、スクリーン上において、モーションとエモーションとの新しい結合の形を模索することにもなるだろう。
今日のフランス映画を代表する二人のシネアストによる作品を通じて、サスペンス/スリラー映画の現代的な形を探ります。主人公たちは、ふとしたきっかけから、日常生活のハイウェイを逸脱してしまい、過去や記憶、歪められたヴィジョン、現実の背後に潜む亡霊たち、そしてついには、自分自身に隠されていた不可解な秘密とも出会うことになります。作品が喚起するさまざまなイメージは、やがて、デヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』とも同様、自己の廃墟や変容さえ見出すことにもなるでしょう。
ルノワールの『素晴らしき放浪者』やアルドリッチの『北国の帝王』をはじめ、映画史にはこれまで、数多くの魅力的な放浪紳士が登場しました。牧歌的な大らかさや気骨あふれる自由主義など、それぞれの放つ気風や雰囲気こそ違え、彼らには、近代的な社会システムには容易に馴染もうとしない、独立独歩の存在感が共通して備わっており、それこそがまた、これら放浪紳士の映画的な魅力へとつながってもいました。サークの作品からは、古き良き時代における、放浪紳士の最後の輝きを見ることができるでしょう。一方、カンテの作品は、放浪紳士の一種のネガのようなものを、わたしたちに見せてくれます。
かつて、ジャン=リュック・ゴダールは、世界と自分自身とを忘れながら知ること、思考しながら語ることにこそ、映画の本質があると述べました。同様に、映画と映画批評とが切り結んできた複雑で生産的な関係もまた、「忘れながら知ること」「思考しながら語ること」という場所に見出すことができるのではないでしょうか。「カイエ・デュ・シネマ」という固有名と分かちがたく結びつけられている映画と批評との関わりを再考することは、すなわち、現代映画の歩みをそのまま辿り直すことにも繋がるのです。
映画史上最大の事件の一つである、ヌーヴェル・ヴァーグ。シネクラブでは、この大事件がその後の映画史に与えた影響の大きさを、そこで活躍した映画作家たちの作品に具体的に触れることを通じて、改めて振り返ろうと思います。シリーズの第一回で取り上げるのは、かつてヌーヴェル・ヴァーグ三銃士の一人とも呼ばれたクロード・シャブロル。彼が六十年代に撮り上げた二本の傑作を上映します。
2006年夏学期のシネクラブでは、ヌーヴェル・ヴァーグを代表するというばかりではなく、もはや二十世紀が生んだ最も重要な芸術家の一人と呼ばれるにふさわしい映画作家である、ジャン=リュック・ゴダールの特集を行います。さまざまな変遷を遂げ、数多くの傑作を生み出した彼のフィルモグラフィの中でも、「映画大陸への帰還」と呼ばれ、きわめて充実した活動を見せた八十年代の作品から、この時期の代表作でもある『パッション』をフィルム上映します。同時に、9月に上映する『小さな兵隊』からは、ゴダール初期のみずみずしい感性を味わうこともできるでしょう。
ゴダールのように過激な映画、アンナ・カリーナのようにオシャレでポップな雰囲気を感じさせる映画…。もちろん、これらもヌーヴェル・ヴァーグの一つの側面であったことは間違いありません。しかし、シャブロルやドゥミやデプレシャンのように既存のジャンルを見事に活用し、そこに惜しみなく愛情を捧げた映画、あるいは、トリュフォーやアサイヤスのように上質の生地を繊細にカットした真新しいシャツのように清々しい映画…。これらもまた、ヌーヴェル・ヴァーグとそれ以降の作家たちがわたしたちにもたらしてくれた、もう一つの映画の贈り物であったのです。
あまりにも激しく、肉体的な「痛み」を伴った70~80年代の傑作群から、表面上は穏やかさを湛えるようになったものの、より豊かさと深みを増した近作に至るまで、ジャック・ドワイヨンは、そのあまりにも見事な演出力と緻密な構成力とによって、つねに映画界のトップランナーの一人であり続けました。今回の特集では、また、若き日のマリアンヌ・ドニクールの姿とともに、ジェーン・バーキンとの間に生まれた実の娘ルー・ドワイヨンの素晴らしさを再確認することができるでしょう。
とりわけ八十年代以降、ある種の映画では少女たちが特権的な被写体として作品全体にその輝きを与えてきました。もちろんそこには、男性映画作家たちによるファンタズムの受け皿として、少女という装置が都合良く機能したという側面もあるでしょう。一方、男性からの視線を自らの内面に折り返した存在として、少女という記号が一人歩きし始めた展開もあったように見えます。しかし、少女たちの映画がわたしたちに見せてくれたものには、そうした文化的・社会学的範疇には収まりきらないものがあった筈なのです。八十年代的な意匠が再び消費の舞台に上がりつつある現在、少女たちの映画からその本来の可能性をあらためて探り出してみたいと思います。





