Latest Publications

2014.05.10 シネクラブのお知らせ

la-tete-contre-les-murs5月10日(土)アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ

14:00~
『壁にぶつかる頭』La tête contre les murs
(フランス/1959年/95分/モノクロ/デジタル/日本語字幕付)
監督:ジョルジュ・フランジュ
出演:ジャン=ピエール・モッキー、アヌーク・エーメ、ピエール・ブラッスール、シャルル・アズナヴール
http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier3/

高名な弁護士のジェラーヌ氏は、反抗的で情緒不安定な息子のフランソワを精神病院に入れた。フランソワは、伝統を重んじる院長のヴァルモン医師と、現代的なメソッドを採用するエムリー医師の対立を目の当たりにする。精神病ではないフランソワは、癲癇患者のウルトゥヴァンとともに病院から逃げ出すが…。

——————————————
16:00~
『燈台守』Gardiens de phare
(1929年/フランス/82分/モノクロ/35mm/サイレント/日本語字幕付)
監督:ジャン・グレミヨン
出演:ジェニカ・アタナジウ、ガブリエル・フォンタン、ヴィタル・ジェイモン、ポール・フロメ
http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier4/

ブルターニュ地方の海沿いの小さな村に住む燈台守の父と息子は一ヶ月の間、女たちのもとを離れ、海の上での任務に就く。息子イヴァンには婚約者との別れがつらい。そのイヴァンが燈台の中で狂犬病を発症し、苦しみ始め、徐々に父親に対して攻撃的になっていく。海はどんどん荒れ始める。父は、息子の攻撃をかわしながら、遭難船を救うために灯をともさなければならない…。海と陸、男たちと女たち、光と闇、両者のコントラストが本作に宇宙的な広がりを与えている。
「グレミヨンは事後の映画作家である。不幸が起こった後、人間がどのようにそれを生きていくのかを描く。『燈台守』、『父帰らず』、そして『愛慾』でも殺人はほとんど見せられない。」(ステファン・ドゥロルム)
東京国立フィルムセンター所蔵作品

本作のフィルムは毎秒18コマで制作されていますが,上映設備の都合により毎秒24コマでの上映となります。映写速度が早まった状態での上映とな ります。
あらかじめご了承ください。

※上映後、映画評論家・大寺眞輔氏による講演があります。

——————————————
当日券のみ。会場にて開場時より販売。一般1200円、会員600円、芸大生無料 (同日2本目は一般も600円) 1本目と2本目のチケットの同時購入可能。開場は、各回30分前より。整理番号順でのご入場・全席自由席。
045-201-1514

東京藝術大学 (横浜・馬車道校舎)大視聴覚室
〒 〒231-0005
横浜市 中区本町 4-44

試写日記『収容病棟』

TilMadnessDoUsPart試写日記『収容病棟』ワン・ビン:素晴らしい!ここには口当たりの良いメロドラマがなければ、社会へと向けられた紋切り型のメッセージもない。ただ、彼らと共有する時間の強度、日常の反復、鉄格子、マージナルなものへと向けられた真摯でおだやかな眼差し、そして様々な人生だけがある!

4時間もの時間を精神病院に収容された人々への凝視に費やす体験は、たとえば『それでも夜は明ける』といった作品を鑑賞して、主人公の境遇に共感して涙を流したり、社会に対して怒りを感じて拳を振り上げるのとは全く違った時間と感動と体験の質を観客である私たちにもたらします。

それは精神病院という特殊な境遇の中で生きる人たちと共有する時間そのものであり、私たちの世界からは隠された場所に生きる者たちの人生そのものであり、さらには人生そのものであるかもしれません。もしかすると、ただ映画だけが発見することの可能な人生の輝きこそがそこにはあるのです。

『収容病棟』6月にイメージフォーラムで公開みたいです。必見!

『収容病棟』は、男性が収容された3階の鉄格子で遮られた廊下をグルグル回り続けるような(腰の高さくらいの?)カメラに独特の世界観とスタイルがあってそれも本当に素晴らしいんだけど、過度に審美的にならない映画作家としての倫理観みたいなものも強く感じられる。

『収容病棟』では、邪気のない笑顔を振りまくんだけど、体中に文字を書き続け、隣にいる年長者をボコボコ殴ろうとする少年も登場して、彼はブカブカの服が奇妙にかわいくて、その寝姿で前半が終わるように下手するとキャラ化寸前なんだけど、やっぱり人間としての手応えがすごくてそれを許さない。

映画の持つこうした凝視の力ってのはやっぱり圧倒的であって、現代において映画を作ろうとする者は、もちろんその試みの方向は多様であるべき何だけど、いずれにしても、こういう力強い作品と対峙しつつ、では自分はどうやってその圧力に対抗するかって覚悟を持って欲しいと思った。

「映画は映画である」についてもう少し

私はしばしばシネフィル批判するシネフィルなんだけど(笑)、それはシネフィルというトライブを批判しているのではなく、その中の「映画は映画である」という同語反復にのみ安住する心の傾向とそれに伴う様々な弊害を批判したいから。

よくシネフィル批判してる人見てると、トライバルウォー仕掛けたいだけの単純な言説が多く、あまり興味ないし不快なケースも多い。一方、日本映画界ではあまりに「映画は映画である」が君臨しすぎてると思う。色んなタイプの人がいるけど、でも殆ど共通して同じ傾向がある。

「映画は映画である」については先日も書いたけど、そこで何が問題になるかというと、一つには新しいものへの知的好奇心が失われがちだってこと。勿論変われば良いってものではないけど、変わらなすぎるのも問題あるわけよ。とりわけインディペンデントでやってる人間には死活問題だよ?

あ、私はインディペンデントだろうがDIYだろうが、喜んで使いますよ!それで伝わるもの、拡がるものがあればそっちの方がずっと大事だから。ももクロよく知らないんだけど、ももクロが個人映画やってたとしてこういう言葉回避したりdisったりするとは絶対思えないしな。

よく知らない憶測を何重にも重ねた不用意なこと喋ってますが(笑)。まあ、そういう言い方が良いのではないかと思った。間違いだったらいつでも訂正しますー

「映画は映画である」は、人を敬虔な信徒かファナティックな狂信者か、いずれにしても線の細い真面目なタイプにしがちなんだけど、それを否定的に乗り越えようとする人たちは基本的にロックとかヒップホップとかヤンキーとかワイルドな方向に行きがちで、これもパターン決まっていて実につまらない。

「映画は見世物である」から始まるあれこれ

「映画は見世物である」という定義に対し先日私が書いた疑問について、もうちょっと。映画は見世物か?まず、これは必ずしもそうとは限りません。なぜなら、見世物として大成功した作品より、それより見栄えせず観客も少なかった方が人の心に深く残り映画史に刻まれる場合も多いから。

あるいは、殆ど誰も見ることのできない、すなわち見世物としてそもそも成立していない作品が映画としてとても大きな力を持つという不思議なケースもあります。「映画は見世物である」という定義を絶対なものと思い込んでしまうと、こうしたダイナミクスが見失われてしまう。

では、映画とは何か?「映画は映画である」。この同語反復が唯一正しいようにも見えるかも知れません。しかし、ここにも問題がある。つまり私たちがそう断言するとき、それが見世物である、科学技術である、芸術である、現実である、浮薄な現在であるという様々な可能性が意気阻喪するから。

だから、まずはここから始めるべきだと思うのですね。まず、映画は映画である。そしてそれと同時に同じ重要性を持って、映画は映画以外のものでもありうる。それは、見世物でもあるし、文化でもあるし、芸術でもあるし、娯楽でもあるし、それらとは逆のものでもあるかもしれない。

ただし、ここで一気に多様な可能性を開示してしまうと、それらが単なる漠然とした全体として曖昧に放棄されてしまう。とりわけ、日本というのはそういう国です。だから、私たちは常に「映画は○○である」という言葉が口にされるとき、同時に映画は非○○かもしれないと考えるべきだと思う。

例えば、ゴダールが「映画は1秒間に24コマの真実だ」と言って、それに対してデ・パルマとかが「24コマの嘘だ」と言ったという話があって、こうした時、私たちはそのどちらか(とりわけ最近の日本では後者)のみを正しいものとして主張しがちだと思う。

でも、やっぱりそれは違う。両者は同時に存在するから意味があるわけです。あるいはさらに言うと、ゴダールの言葉にその弁証法が既に含まれている。ゴダールという映画作家は大きく言うと編集(嘘)によって自分の作品を作るタイプのシネアストです。それがああいう言葉を口にすることに意味がある。

弁証法ってのはポストモダン以降とても評判の悪いものの考え方の作法だと思いますけど、でも、弁証法を否定した後、私たちはそこで豊かな多様性の側に行くことができれば良いですが、現実にはとてつもなく単一のファシズムの側に行き着きがちな訳ですよ。私たちの現在がそれを証明してる。

あるいは、個人的な話ですが、冨永昌敬が「亀虫」をDVDにしたとき、私はそのライナーノートで彼のリアリズム性みたいな話を書きました。これも同じことです。冨永昌敬はどう考えてもフィクション性の強い作品を作る作家ですが、そう断じてしまうとそこで見えなくなるものがたくさんある。

だから、敢えて逆に考えてみるのはとても重要だと思うのですね。敢えて冨永昌敬をリアリズムの作家だと考えてみる。映画は見世物じゃないと考えてみる。映画は映画じゃないと考えてみる。こうした弁証法を通じて私たちはそこから先に様々な可能性が拡がっていることに気づく。

その可能性の拡がりこそが重要なのです。誰か偉大な映画人が「映画とは○○である」と口にする。そしてその言葉を唯一絶対なものとして信奉する人々がそれ以外の可能性を愚かなものとして排撃してしまう。これでは、映画はあっという間に滅んでしまう。この映画という言葉を日本に置き換えても同じ。

映画とは何か?その問いかけというものは、それに一度答えを与え、しかしまたその正解だと思える答えに対して自ら敢えて否定を試み、別の可能性に置き換えていくという一連の作業と時間の中でのみ意味を持つものなのだと私は思います。

あるいは、自らを否定しにやってくる他者を受け入れる。それも同じことだと思います。そして、批評家というのは、しばしばそういう存在であろうとする者のことだと私は思いますね。それは、映画とは○○であるという心地よい断言が支配する空間に否定と逡巡による時間を導入する。

もちろんここでまた、いや、映画批評家とはそうした存在ではないのだって否定が併置されるべきなのですが(笑)、まあ後は以下同文と言うことで。

アラン・ギロディ特集@シネクラブ

affiche_inconnu_du_lac4/12(土)アラン・ギロディ特集@アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ!

14時『キング・オブ・エスケープ』日本語字幕フィルム上映
http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier1/
16時『湖の見知らぬ男』英語字幕DCP上映
(この傑作が本当に見られるべき正しい形で日本で見られるのは、きわめて高い確率で今回が最後になると思われます。万難を排して駆けつけるべき!)
http://www.institutfrancais.jp/yokohama/events-manager/cahier2/

当日券のみ。会場にて開場時より販売。
一般1200円、会員600円、芸大生無料 (同日2本目は一般も600円)
1本目と2本目のチケットの同時購入可能。
開場は、各回30分前より。整理番号順でのご入場・全席自由席。
045-201-1514

東京藝術大学 (横浜・馬車道校舎)大視聴覚室
〒 〒231-0005
横浜市 中区本町 4-44

上映後私のトークが付きます。
2本立てで両方見ると2本目は半額ですよ。
よろしくお願いします!