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映画のことやゲームのこと

下で書いた『それでも夜は明ける』における現代映画のエッジなメソッドを古典的物語映画と折衷してあのように大成功収めたことに対する肯定ないし否定を議論するってのはとってもアクチュアルな問題だと思うんだけどなあ。根本的に現代映画という問題自体がこの国では不在なのかも知れない。

もちろんある種の古典映画は現在でも撮られているし、見られるべきだし、面白いし、インスピレーションの源なんだけど、そこで古典的物語映画(A)/現代映画(B)という世界映画の現在へと到達すべき最初の溝ないし亀裂ないし転換点となる大きな問題が認識されず、あくまで(A)一元論、ないし(A)とその不可能性という否定神学的構造の中で映画がとらえ続けられているのが日本の映画状況ないしそれを取り巻く言説における今日まで続く最大の問題の一つであるのかも知れません。

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今年に入ってAAAタイトル作ってた大手ゲームスタジオがバンバン閉鎖してバンバンレイオフ進んでるし、インディーゲームへの流れとかEarly Access現象ってのもあるから、今、映画からゲームへの物語媒体の移行って図式を作るのはやや首を傾げる部分がある。

むしろ、ハリウッドに憧れて大型化を進めてきたゲーム業界にあって、ごく少数の圧倒的勝ち組を除いた本格的危機に直面しているのがこの一二年の流れで、その中でもう一度「ゲームとは何か?」って根源的な問い直しが起きているのが現状だと思う。

例えば「バイオショック」シリーズを作り世界的に影響力の強いケン・レヴィンなんかが、自身が作り上げたイラショナルゲームズをわずか15名のスタッフにまで縮小したんだけど、その背後にも同じ危機感があったし、一つの物語を作品にするまで7年もかかるような現在のAAAタイトル製作はあまりに不合理だしリスクが大きいし、それ以上にゲームのあるべき姿じゃないって発言をしてる。彼の次の作品は物語をレゴブロックのように自由に組み合わせたり展開出来るという野心的なものになるらしい。

だから、当たり前のことなんだけど、映画とゲームはやっぱり「違う」。その絶対的な違いを前提にお互いの良いところや問題点を見て学んでいくべきであって、安易な比較やあっちはこんなに新しい!とかすごい!みたいな話はとても危険だと思う。

『それでも夜は明ける』

12-Years-A-Slave-Movie『それでも夜は明ける』スティーヴ・マックイーン:試写逃しちゃったので、ようやく見ました。すでにアカデミーはじめ多数の大きな賞に輝き賞賛に包まれている作品なので改めて言うまでもないですが、これは確かに素晴らしかった。マックイーン作品としても完成度が図抜けて高い。

現代映画の一つの傾向として、ある極限状態の中で人間性を奪われ動物や物として扱われる人物への執拗な凝視を通じて、フィルム体験を圧倒的な強度の中に置き、観客を同様の状況内部に引きずり込むというものがあります。ペドロ・コスタや王兵が典型的ですが、マックイーンもまたそれに近い。

ハンガーストライキを描いた処女作『ハンガー』はまさにそうした作品で、ただマックイーンの場合、現代映画のエッジを保守的な物語映画の中へうまく折衷的に取り込む技術にも長けていて、それが今回の大成功へと結実したように思う。それが良いことか悪いことかは議論されるべき問題として。

(こういう議論はちゃんとすべきだと思うんだよ。)

ただ、日本タイトルの『それでも夜は明ける』は個人的に違うと思う。黒人奴隷問題を扱った作品ですが、白人による黒人の奴隷化と搾取と人間性の剥奪という問題以上に、同じ状況に置かれた筈の黒人同士さえ隔てる(カポ問題にも近似する)支配システムの残酷さこそ描いていて、

だから主人公が奴隷から解放されることが決して単純な勝利のカタルシスを観客に感じさせることがなく、それこそこの作品の主眼となっているから。

また、ポール・ダノ(最高!)らに縛り首にされそうになった主人公がそのまま苦痛に耐えつつ長い時間衆人環視(他の奴隷は手出し出来ない)の中で絶え続ける姿など、この作品で最も美しく、かつ凡庸なメロドラマからは限りなく遠い場面でしたが、あれもまた同じ主題に基づいてる。

マックイーンとしては、だから彼の作家性が最も活かされた成功作になったと思うのですけど、ただし、一つ思うのは、こうした極限状況下における人間性の剥奪=フィルム体験の強度という映画メソッドって、本質的にマージナルやマイノリティ、地方へと向かわざるを得ないんですよね。

勿論それが悪いわけじゃないですし、また、マージナルであればあるほど映画は世界的なものになるってルノワールの言葉に忠実だとも言えるんですが、でも同時に映画はやっぱり現代世界をその真ん中で描きたいって野心が一方であると思うんですよ。そこが引っかかる。

(こういう議論もちゃんとすべきだと思うんだよ。現在の日本の映画界隈って、こういう現代映画にとって最も重要な筈の議論が根こそぎ欠けてると思う。)

で、マックイーンの第二作『シェイム』はそれをやろうとしたと思うんですね。つまり、セックスアディクトという切り口を使うことで、極限状況映画メソッドを都市の映画として、ある種のメロドラマのタッチと共に発展させようとした。

必ずしも成功作だとは思いませんけど、でもその作家的野心は理解出来るし、面白いと思った。で、ジョアン・ペドロ・ロドリゲスの『ファンタズマ』は、同じラインでたぶんずっと成功した作品になってると思う。自分が公開したってこと抜きにしても、あれはきわめて重要な意義を持つ傑作です。

マックイーンとしては、今回の作品が主題的にも、自らの本来の作風と保守的なドラマ映画との噛み合わせという意味でも、あらゆる意味でうまく運んだ作品になったとは思いますが、今後どうなるかはまだ微妙ですね。ハリウッドのシステムに入っちゃうとまた難しい部分も出てくるでしょう。

ちょうど良い規模と主題の作品に恵まれ続ければ良いなあと願います。まあ、それが現代社会においては一番難しいんだけど。ともあれ、『それでも夜は明ける』は素晴らしい作品なので、未見の人は絶対に見るべき。

世界を相手に(と共に)闘うために #2

昨日、日本ヤバイ、文化も映画もヤバイって話書いたら、もう海外に出ないとどうしようもないってコメント幾つかもらって、それは現状としてある程度その通りだと思うし、実際、私の周りの若くて優秀な人はどんどん留学したり海外に出て行ってる。

で、可能なら是非そうすべきだと私も思いますが、ただ、本質的な部分では海外も日本も変わりないってことも考えるべきだと思う。日本特有の問題もあるけど、でもバブル期のような特殊なことは世界的にあまり期待出来ないし、それは日本に限ったことじゃないってこと。

例えば、昨日書いた『エイプ』のジョエル・ポトリカス監督だって、今や世界中の映画祭で引っ張りだこになってますけど、最初にロカルノ映画祭にエントリーした時なんて、渡航費なくて卒業した映画学校にサポート頼んだらTシャツ2枚渡されて、これ売ってお金にしなさいって言われたらしい(笑)。

シェーン・カルースの処女作『プライマー』だって製作費たった70万円だよ?バイトで稼げる額だよね。ただし、彼は完成までに数年かけていてその間ものすごいエネルギーと時間をそこに注ぎ込んでる。だからこそminiDVで編集した作品がハリウッド映画に負けず世界中で話題になった。

実際、彼はハリウッドからも熱い注目を浴びて、ソダーバーグやデヴィッド・フィンチャーのプロデュースで数十億かけたSF大作を作ろうって話でその後10年動いたんだけど、みんな君の才能はすごいって言うくせに全然財布のひもを緩めようとはしなかったって(笑)。

で、諦めた彼は自力で数百万円集めて『アップストリーム・カラー』作って、これがまた世界中で年間ベストテンにランクインするほど賞賛を集めて、彼は今回配給も全て自分でやってるから、その資金でまた次の作品を撮ろうと準備してる。

だからアメリカでもポルトガルでもフランスでも、本質的には変わらないのであって、つまりいわゆる顔のないシステムに属する蜃気楼のような1%と私たち99%の戦いがそこにある訳ですよ。その世界的な戦いの現状が何故か見えない日本って問題はあるけどね。

1%に入りたい、実際には入る手前で抜け殻になるまで搾取されて終了かもしれないけど、それでも1%に入りたいって人はそうすれば良いと思う。でも、それだけが私たち99%に許された可能性だというのではあまりにも希望がないよ。

実際、今の映画業界の人と話していても、その目線は全然若い人の方に向いていないから。もちろん、中にはまだまだ良心的な人や良質な文化はあるから侮っちゃ駄目だけど、でも本質はそうだよ。過去を向いてる。だから、そこからステップアップしてって夢を描いても現実厳しいと思う。

1%だけを目指して、憧れて、夢を抱いて、そして必然的に絶望するからこそ、私たちは孤独や疎外感を感じるし、シニカルにもなっちゃう。でも、逆に言えば同じ孤独を感じている人は世界中にいる訳であって、なにせ私たちは99%もいる訳です。圧倒的です。だから、その中で繋がれば良いわけです。

もちろん、99%の人間と繋がる必要は全然なくて(笑)、逆にそれだけ数がいるわけだから、その中で繋がるべき人を厳選して繋がれば良い。と言うことはつまり、自分もまた相手から選ばれる人間にならなければいけないってことだけどね!

こうした自覚と幾つかの必要条件さえ満たせば、私たちは素晴らしいインターネットとSNSの時代に生きてるんだってことを驚きと共に発見すると思うよ。孤独な場所で自分一人で何かやってた人が、次の瞬間には多くの人々と連帯してしまっている自分に気づく。それが今だと思う。

で、私は今そういうことの手伝いをしたいと思って、昨年からずっとひそかに動いてます。去年、ジョアン・ペドロ・ロドリゲスのレトロスペクティヴをインディペンデント映画祭として自力でやって、こうした試みが世界的にもものすごく意味のあることだって分かった。いろんな可能性が見えた。

その可能性を、だから今度は多くの人たちと共有したいと思ってる。そしてそれが、99%の私たちが1%を目指さず、芸術的野心を捨てず、そして人間性を捨てず、でもチャンと自分なりの充実感と手応えを持って生きていくことのできる道の一つになれば良いと思う。

あと、シネフィル×アンチ・シネフィルって下らない対立図式はそろそろやめようよ。シネフィルに問題あるのは事実だし、膨大に映画見なくても映画作れるのも事実だけど、でも、他人の作った素晴らしい映画知らずに自分だけは良い映画撮れる才能あるって、その根拠はどこにあるの?

それに、アーティストとか映画作家とか批評家とかってのは、そういう溌剌とした興味や好奇心を備えているべき人種じゃない?そうあって欲しいと思うし、逆に言えば、少なくとも私はそういう人にしか興味ないな。だいたい、映画に関わる人間が映画見てなくて、じゃ、誰が映画見るわけ?

もちろん、誰しも膨大な可能性の中から常に選択して生きているわけで、全てのものに関心を寄せる必要なんて一つもないけどね。

それに、国内であれ海外であれ、とりわけ国際的関係においてそうだけど、映画の世界の人間は映画の話することでお互いの場所を確認し合うし、友達になるわけ。それは国際映画祭で爪痕残すための戦略じゃなくて、あるいはそれ以上に、映画の世界で生きることの本当の意味じゃないかな?

アメリカとかポルトガルとかフランスとか中国とかで映画やってる面白い連中と友達になること目指して映画作家や批評家やる人が国内にもっと増えて欲しいと本気で思う。

世界を相手に(と共に)闘うために

80年代頃から日本の文化が世界最先端に躍り出て刺激的なものを次々に生み出したのって、その背景には海外文化が怒濤のように押し寄せてきたからってのがあって、これは戦後にドッと入ってきたアメリカ映画を浴びるように見たフランスの若いシネフィルがヌーヴェル・ヴァーグ起こしたのに近いけど、その後、不況になって今や誰もが知るように海外の新しい文化はなかなか紹介されなくなった。それでも音楽とかは言語関係ないしむしろネット時代のアクセスの容易さに助けられると思うけど、映画はやっぱ言葉の壁が大きくて国内外の情報格差がすさまじく広がってきてる。これは怖い。

しかも、映画批評家やライターでさえ国内に残った映画ビジネス内部で生きてるから海外の情報とか知らない人が殆どだし、そんなこと知らなくて良いんだ、映画は大衆と共に生まれるものなんだって保守的&反動的ロマンチシズム振り回す人ばかりって現状で、何度も書いてるけど私は大変危機感持ってる。

と言うか、若い人はもっと危機感持たないと駄目だよ。これは本当に危険な状況だよ。日本語しか出来ない人が日本の中で日本サイコーって唯我独尊に思い込んでるのって、別に排外主義者ばかりにとどまらないんだから。ほぼみんなそうなりつつある。文化やアートや映画でさえ同じってのが恐ろしい。

と言うのも、今映画も本格的にデジタル時代に入って、明らかに新しい表現や感性やスタイルが世界的に生まれつつあるのよ。それ知らずに恐竜時代のロマンチシズムで恐竜時代の映画を恐竜とは比べものにならない貧弱な肉体で生み出し続けても、それはなかなか世界相手に闘えないよ!

フィルムと共に自分はもう死んでいきますって覚悟決めた老人は良いのよ。明確な意志を持ってそうやってる偉い人もいるし、その気持ちはとってもよく分かるから。でも、それはそれであって、若い人は同じこと考えてちゃ駄目でしょ!デジタル時代の映画を生きてかなきゃいけないんだからさ!

以前、ユーロスペースの堀越さんにインタビューしたときにも、私たちは今映画史上最大の革命に直面しているって話を聞いて、これは他にも多くの人が述べているのですが、確かにものすごく大きな変化が起きているし、次々に新しい試みが生まれ、別種の可能性が模索されてると思う。

そうした変化のただ中で人はどういう態度を取りうるかって問題に関してよく言及されるのはアドルノとベンヤミンで、つまり芸術の深遠を見つめ浮薄な現在を蔑視することで、しかしまさに自らの足下で生まれつつあった映画という新しい芸術の誕生をみすみす見逃してしまったアドルノか、それとも軽薄の誹りを怖れずきらびやかな現在にとことん寄り添い、その最良の可能性を見出すことを志したベンヤミンかって選択であって、もちろんここには現在であるからこその反転や捻れもある訳で、ベンヤミン的であるためには時にアドルノ的言説に与する必要もあるように思うんだけど、でも、根本的な世界への応答の仕方として、やはりこの両者の対立図式は現在でも有効であると思うし、そこで私はもちろん基本的にはベンヤミン的でありたいと願ってる。

『エイプ』

apeee『エイプ』ジョエル・ポトリカス:ポトリカスの処女長編であり、『コヨーテ』主演のジョシュア・バージと再び組んだ作品。続く『バザード』も同じくバージ主演で、アニマル・トリロジーと(たぶん冗談半分に)位置づけられてる。超超低予算故の疵もあるが、それ以上にその圧倒的なパワーがすごい!

ポトリカス&バージからは、カラックス&ドニ・ラヴァンやスコセッシ&デ・ニーロといった映画史上の名コンビをたやすく連想させられると思う。スコセッシからフェラーラへと続くアメリカン・インディペンデントのド本流を歩むと同時に現在のそれに対する暴力的なエイリアンでもある。

うんざりするほど退屈で肩すかしばかりの鬱屈した毎日を送るスタンダップ・コメディアンが少しずつ現在の資本主義世界が胎む暴力と狂気に犯されていくって作品で、『キング・オブ・コメディ』なんかすぐに思い出すし、ジャームッシュやクローネンバーグだったりもする。

ポトリカスは実際に一時ニューヨークでスタンダップ・コメディアンやってたらしく、その時感じた孤独と疎外感と退屈と怒りをたっぷり詰め込んだ作品になってる。「真実の映画だけを撮りたい」って彼は言ってる。同時にコミックやホラーのテイストもたっぷり。その壊れたバランス感が面白い。

週末に友人たちを集めて撮影し、お金が足りないときは家にあったビール缶を売ったりして撮影続けたらしい。で、友人の友人辿って映画見てもらう内にロカルノに呼ばれて2つの大きな賞と賞金を獲得し、それで作った第二作は先日のSXSWで大評判だったという、まさにエマージング・スター!

実際、私も彼の『コヨーテ』がメチャ良かったとTwitterに書いてた流れで友達になって、こうやって『エイプ』見せてもらっちゃった!超ラッキー!いやあ、すっごい時代になったよ!一方で私たちを隔てる壁は高く厚くなるばかりだけど、繋がるときにはこうやってあっさり繋がれたりする!

「顔のないシステムへの怒り」をポトリカスは様々なインタビューで口にしてるけど、そしてそれを前にすれば勿論孤独と疎外感ばかり私たちは感じちゃう訳だけど、でも、孤独なのは自分一人だけじゃないし、その繋がりは別に友人たちや日本国内だけにとどまる訳じゃないってことを忘れずにいたい。

『エイプ』や『バザード』が評判を呼んで世界中から買い手殺到したみたいなんだけど、ロカルノ後のインタビューでしばらくは世界中の映画祭サーキットに呼ばれて旅することを楽しみたいし、すぐに作品売るつもりはないってポトリカスは答えてる。だって、この瞬間を楽しみに生きてきた訳だからって。

いいなあ、そういうの。みんな、いや、みんなじゃなくて良いけど(笑)、インディーで映画撮ってる人とかこういう生き方目指そうよ!で、『バザード』の方はMCAが設立したオシロスコープが買ったようで、それも背景感じる本当にいい話だ!

『エイプ』予告編 https://www.youtube.com/watch?v=S3qd3kdVzKw